2009年4月5日   復活前主日 (B年)

 

司祭 マーク シュタール

 今日は、とっても、対照的な二つのものが劇的に入れ替わる日です。今日は、イエス様が、エルサレムに入られたことを記念し、お祝いする日です。イエス様はどこかの国がするように、軍事的圧力で征服しに来たのではなく、平和の君主として来たのです。しかし、イエス様はどのようなことが、自分を待ち受けているのかを知っていました。私は、イエス様の想像を絶する痛みと侮辱が、私達のクリスチャンとしての信仰の物語の山場だと思います。多くの人は復活日や聖霊降臨日、クリスマスや顕現節のほうが重要な出来事だと思っておられます。私は今日、この日が一番大きな出来事だと思っています。イエス様は言われました、“アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯を私から取り除けて下さい。しかし、願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。”
 イエス様は私達と同じ、一人の人間でもありました。イエス様だって、苦しみたくはなかったのです。しかし、それ以上に、イエス様は神様のご意志に従いたいという思いが強かったのです。イエス様はどんなに苦しみが大きくても、自分の願いを捨て、神様の声に従うことが唯一の道であると私達に示しておられます。そして、イエス様はそうすることによって、自分自身を聖なるものとなさったのです。イエス様はエルサレムを出て、道端のゴミ捨て場で裸にされ、かかしのように釘打たれ、人々の前で惨めに苦しみ、死んでいかれました。しかし、神様の声に従って、このような苦しみを受けた方こそ、イエス様を聖なるものとしているのです。
 今週は聖なるものという言葉の持つ意味が劇的に変わる時です。聖なるものといえば、人々が足を踏み入れることの赦されなかった神殿をさしていました。しかし、今は十字架につけられたイエス様の体、道端の十字架が聖なるものとなったのです。
 豪華絢爛で人を締め出したユダヤの神殿と、道端の十字架につけられた何の罪もない裸のままのイエス様。この二つはあまりにも対照的です。イエス様が御自身の、人間としての願いどおりにしていたら、このような出来事は起きなかったはずです。しかし、イエス様はそうされなかった。そして、私達は今日、京都教区のあちこちの教会や家に集まって、イエス様の犠牲を覚え、絶えざる感謝をお捧げします。
 もし、私達も愛をもってキリストに従って生きるなら、私達もまた、身をもって福音の物語を作り上げることが出来るでしょう。もう一度、キリストの情熱的な物語を読みましょう。