2009年3月29日   大斎節第5主日 (B年)

 

司祭 エリシャ 富田正通

不思議な体験

 歳を取るとせっかちになるといわれますが、この原稿を大齋始日に書いています。前主日の福音書は、イエス様の姿が山の上で変わったという箇所が読まれます。ちょうどその頃、多くの国で謝肉祭が行われ、仮装をした人々が街にあふれます。この対比は色々の想像をかき立て尽きることがありません。
 私は、この紙面や教区報<つのぶえ>でここ数年天国について述べてきました。ある方からは、「定年が近づいたから、天国を語りたくなったの?」とひやかされたこともありました。きっかけは、若くして戦争で連れ合いを亡くされた方から、「天国で夫に逢ったときこんな老人になった私を分かってくれるかしら?」という悩みを打ち明けられ、天国について考えるようになったからです。聖書には天国のヒントが数多く示されていることに気付きました。
 それと、私は不思議な体験を3度しています。最初は、小学生6年の時のことです。放送部に所属していて、一人帰りが遅くなりました。部室の鍵を閉め、階段の方に向かおうとした時、廊下の向こうから数人の走る足音が近づいてきました。誰も居ないはずなのにと思って見ると、私と同じくらいの背格好の人たちが、すごい勢いで私の脇をすり抜け、階段を駆け下りていきました。霧のような不透明な人間の形をした動く物体にあっけに取られ、恐怖心よりも一体何なのだろうという思いがしました。
 2度目は、数日経った頃、家の中で起きました。弟たちの床の間で遊んでいた時、何気なく玄関を見ると、先に見た霧のような姿をした少年が一人、下駄箱にもたれ膝を抱えうつむいて座っています。弟たちを驚かせてはいけないと思い、ふすまを閉めて奥の部屋に移動させ、しばらく経ってから見に行くと、少年の姿は消えていました。このとき以降、出遭っていませんが、今でも時々思い出しては、あの霧のような者の正体は何だろうかと思い巡らしています。すれ違う時に空気の流れを感じることはありませんでしたし、足音を聞いたので、質量や重量を持ったもの。顔のつくりは一様で、目・鼻・口・耳が判別できる程度。複数で、また単独で行動し、驚くほどの速さで走る。ふすまを閉める時にこちらを見ることもなく私たちに無関心な様子。玄関の開閉には戸車の音がするはずなのに、音を立てずに消えてしまったことなど。宇宙人に出会ったのでしょうか。それとも???。
 3度目は、イエス様に出会いました。神学院の2年生の時、風呂から上がって部屋に戻ると、なんとロッカーの扉にイエス様の姿が現われ、鮮明に見えるではありませんか。長い髪の毛に髭を蓄えあごの先から二等辺三角形に伸びています。赤みを帯びた衣を身にまとっています。語りかけようとするでもなく、優しい眼差しでじっと私を見つめています。本当は、その場にひれ伏さなくてはならないのでしょうが、一瞬息を呑んで立ち尽くしていました。しばらくするとスーと消えてしまいました。寮生の人に、「どうしたのだ。お前の顔が輝いて見える」と言われ、「イエス様に逢った」というと。「絵の見すぎだろう。イエス様の絵と同じだったのだろう」と誰も信じてくれませんでした。モーセが神様に出逢って顔が輝いたように私の顔も輝いたのだろうか。弟子たちが、イエス様と出逢って、「私はメシアに逢った」といった時、信じる人が居たのに、などと思ったりしています。
 イエス様が「父よ、御名の栄光を現してください。」とおっしゃったとき、天から声が聞こえ「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」。そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。(ヨハネ12:28) 
 私の不思議な体験を語った時、「あなたは、霊感が強いのですね。」と言われたことがあります。前掲の聖書では、同じことを聞いたのに聞こえ方に違いがあります。多くの人たちは雷の音としか聞けませんでした。中に天使の声として聞いた人、話の内容を理解できた人がいたのです。この差は、神様との係り方、また、信仰心の違いでしょうか。聖書は、ただ、起きたことをありのままに伝えるだけで、解釈をしていません。これでいいのです。
 イエス様は、雷の音として聞いた者も天使の声として聞いた者にも「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と言われました。信仰心の深い・浅い、厚い・薄いなどを問わないで受け入れてくださいます。