2009年3月15日   大斎節第3主日 (B年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

「神殿から商人を追い出す」【ヨハネ2章13−22節】

 イエスさまが神殿の境内で商売をしている人たちを追い出されたという荒々しい場面が浮き彫りにされている箇所です。子供の頃、日曜学校でこの場面を描いた聖画を見たのがとても印象に残っています。それは両替台をひっくり返すという乱暴なイエスさまのイメージと普段のイエスさまの姿とが結びつかなかったからかも知れません。「怒るイエス」の姿はこども心にも驚きでした。
 当時の神殿では供え物が売られ巡礼者の便宜がはかられていました。指定されていた貨幣に換えて納めることが定められていました。その当初の目的から次第に逸脱し、最初から金目当てというその姿勢が見えてきたことにイエスさま自身、見過ごすことができなくなったというのが背景にありました。
「神殿とは誰のものか?」という問いかけがイエスさまから発せられたというのが今日の福音書です。人々にとって神殿とは「神が現れる場」であり「神と出会うことのできる場」でもありました。同時に、さまざまな制約が課せられていた当時の状況を考えてみると誰もがいける場所ではなかったことを思わされます。
 神殿とは神さまと自分を繋ぐ空間です。その空間は神の霊によって満たされている空間であり、何よりも「すべての人々に開かれるべき」ところです。そこに足を踏み入れるとき、この世の様々なしがらみに疲れ、傷つき、病んでいる者にとっては癒しと慰めの場になるはずの場所ではなかったでしょうか。
純粋に神さまを求め、祈りたい人が近づけないようなところであってはならない、というのがイエスさまの真意でありました。わたしたちにとって大切なことはイエスさまがどこに立とうとしておられるのかということに対して、時には「怒り」を持って伝えなければならないことがあるのだ、というメッセージを福音書から聴くことができます。
 わたしたちの教会は「すべての人に開かれた」祈りの場になっているのでしょうか。
 わたしたちのささげる「聖餐式」陪餐後の祈りは、未信徒の人々にとっては隔たりを感じさせる表現になっていると言われています。今年2月に京都でおこなわれた「礼拝音楽担当者会」の聖餐式では、陪餐後に聖歌を歌い、その後に共に手を繋ぎながらしばらく沈黙の時を持ちました。礼拝に参加したものがひとつになるというアクションはとても印象的なものになりました。
 主日だけでなく様々な機会に祈りはささげられます。その祈りは感謝であり、懺悔であり、自分の思いを主に委ねる祈りであったりします。神さまに向かって思いをひとつにして祈りあう場がわたしたちには必要です。その祈りの場はわたしたちに向かって神さまへの純真さを取り戻してほしいと願い、弱くされた者の側に立ち、自分の命をささげてまでも神さまへの熱意に生きようとされ、生きる神殿となられたイエスさまの姿を通して成り立っていることを何よりも覚えたいと思います。