2009年3月1日   大斎節第1主日 (B年)

 

司祭 マタイ 西川征士

〈霊≠ノ導かれて〉

 大斎節(十字架に向かっての準備の期節)に入って最初の主日を迎えました。
 福音書では、イエス様の受洗と荒れ野での悪魔の誘惑を受けられたという短い記事を読みました。(マルコの福音書では、「荒野の誘惑」の記事の中身は書かれていません。)

 イエス様は神の子としての伝道活動を開始するに当たり、ヨハネから洗礼を受け、天から霊の力を受け、更に、その霊によって荒れ野に導かれて、悪魔の誘惑を受けられた事が記されています。
 イエス様は豊かな霊の力によって、これから起こってくる色々な問題(例えば、自分のパン=生活の問題、迫害の問題等)をどう克服するか、信仰的にどう乗り越えて行くのかを、祈りながら心の準備をされたのでした。そして、神から与えられた豊かな霊の力に導かれて克服して行かれたのです。

 「それから霊≠ヘイエスを荒れ野に送り出した。」(マルコ1:12)
 因みに、霊≠ニいう語は、「霊」でも、特に「聖霊」「神の霊」「主の霊」の意味の場合に≠ェ付けられています。原語や英語では頭文字が大文字で書かれているものです。
 それはともかくとして、「送り出した」という語は英語の「ドライブ」(drive)を使っているのは面白いと思います。(マタイでは「導かれて」、ルカでは「引き廻され」という訳になっていますが、いずれも英語では「導かれて」(was led)になっています。)

 「ドライブ」で思い出すのは、自動車のカーナビです。私の自動車にはついていませんが、行き先の番地とか、電話番号をインプットしておけば、目的地まできちんと道案内をしてくれるというものです。「ナビ」は「ナビゲーター」(操縦者)のことのようです。
 更にもう一つ連想させられるのは、盲導犬のことです。目の不自由な方を安全に歩行できるように、よく訓練された犬が誘導します。
 カーナビも盲導犬も、車や人をうまく導いてくれる訳です。うまく操縦してくれるのです。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。」(ヨハネ16:33)
 とイエスが弟子達に言われたように、私たち人間には多くの悩み、苦しみ、不安があります。重い病気の人や、急に会社から首を切られマンションまで追い出され、食べること、住むことに、困っている人が一杯です。自分でもどうして良いか分からないこともたくさんあります。
 おまけに、私たち人間は皆、心の中に悪い誘惑の力(悪魔)も働きますから、どのように生きていけば良いか、不安だらけであります。
 立派な大人ではありますが、悩み多い人生を渡って行くには、みんな幼な子同然だと思います。カーナビのような、人間の魂(心)を目的地までしっかり操縦して導いてくれるものがあればどんなに安心でしょうか。
 幸いにも、私たちは、教会と信仰が与えられ、霊≠フ導きを受けて、何とか、ややこしい人生の道を歩み続けられています。ほんとうにありがたいことです。

 イエス様は「荒れ野」で霊≠ノ導かれながら悪魔の誘惑を受けられたのでした。
 私たちにとっては「荒れ野」は「この世」「日常世界」です。様々な悩みを経験するのはこの世であり、人生の只中です。
 しかし、よく考えてみると、イエス様がおられた「荒れ野」は静かに祈る場所でもありました。
 そんな風に考えますと、私たちにとっても「荒れ野」は、むしろ、この世の生活の場ではなくて、教会なのかも知れません。
 イエス様が「荒れ野の誘惑」の後、「霊≠フ力に導かれてガリラヤに帰られた。」(ルカ4:14)と書かれています。私たちも、教会という荒れ野で、日曜日祈り、「霊の力に満ちて」家に、生活に帰っていくのではないでしょうか。

 どうか、教会で豊かな霊の力を神様から頂いて、悩み多いこの世でも、その主の霊というナビゲーターに導かれて、確かな歩みをして行きたいものです。
 又、大斎節も豊かな霊の導きを受けて行くことができる、良い訓練の時となるように祈ります。

 「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)
 「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)