2009年2月22日   大斎節前主日 (B年)

 

司祭 テモテ 宮嶋 眞

これは私の愛する子

 今日の聖書の箇所は、イエス様がいよいよ、十字架の死(人々の罪をあがなうための犠牲的な死)という、この地上に来られた最大の働きへと進んでいくターニングポイントに立たれた場面です。
 少数の弟子たちと共に、高い山に登り、そこで先祖の偉大な預言者モーセとエリヤと共に、これから起こるであろうご自分の苦難について語り合います。このとき、イエス様の姿は真っ白に輝きました。
 この世のどんなさらし職人でも及ばぬほどの白さだったと書かれています。
 イエス様が、これから襲ってくる苦難を前にして変身されたのでした。
 スーパーマンにしても仮面ライダーにしても、その最も危機に出会ったときに変身し、超人的力を発揮し敵をやっつけます。イエス様もまた、神の子としての超人的な力を発揮しようとされたのでしょうか。大変身し、かのヒーローたちのように敵を散々にやっつけようというのでしょうか。しかし、ここでイエス様はその神の子としての超人的姿を一瞬見せただけで、すぐにもとの姿に戻られました。
 そして、神から派遣された超人、神の子としてではなく、ひとりの人間として、この苦難に向かって歩み始めるのです。超人的パワーがあれば、なんと心強いことでしょう。しかしそれをあえて封印して進まれるイエス様。そのふしぎな力の源は何なのでしょうか。
 それは「これは私の愛する子」という神さまの声ではなかったでしょうか。
 神さまに信頼されて送り出されたひとりの人として歩むイエス様。その神さまの信頼に応えて進まれるのです。
 私たち人間も、超人的な力をいただいて活躍するのではなくて、ひとりの人間として歩むことを求められているように思います。苦しい道が待っているかもしれない。しかしその私たち一人ひとりにも、神さまは「これは私の愛する子」ということばを掛けてくださっているのです。
 具体的には、親からでしょうが、神さまから、命を与えられ、その命を支えるからだと心を与えられた私たちは、すでにその時点でこの言葉を聞いているはずです。しかし、それを忘れ、臆病な心になってしまっているのが私たちです。
 「神は、臆病の霊ではなく、力と愛と、思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(テモテ第二の手紙1章7節)
 神様の力も、先祖の有力な預言者たちの力も借りず、ただ、神さまの導きを信じて、弟子たちと共に山を降りて進まれるイエス様。私たちもその歩みにつき従っていくことができるように願っています。