司祭 ヨブ 楠本良招
「風」(初島だより第7号)
1月の季節になると、港が近いために浜風が強い。自転車に乗ると風で前に進めなくなる。追い風だと自転車も楽になると思うが、そうでもない。やはり同じである。足腰が強くなりそうだと自分を納得させている。園の木々の落ち葉は散ったが、まだ楠の木の葉が風で、近所の道にまで散りにぎわしている。
吉永小百合の若い頃の歌で題は忘れたが「北風吹きぬく、寒い朝も」と言う内容であったと記憶している。歌詞は定かでないが、何とか曲を口ずさみながら、朝早く落ち葉を掃除すると何となく気分ものってくる。
この主日はヨハネによる福音書1章43節〜51節から選ばれている。フィリポが友人ナタナエルをイエスのもとへ連れて行く。イエスはさまざまな方法で弟子として召している。フィリポは、イエスの招きに素直に応じている。彼の友人であるナタナエルをさそうとするが、彼は「あのナザレから何の良いものが出るだろうか」と疑問を発している。彼はフィリポの証言につまずき、ナザレに偏見を持っていた。それでもフィリポは友人のためにイエスのもとへ連れていく。イエスはナタナエルをずっと前から見つめていたと言われた。ナタナエルはイエスによって名を覚えられ、愛されていることを知り「神の子、イスラエルの王」と信仰告白するに至った。フィリポの信仰が友人ナタナエルの心を動かした感動の物語である。二人の間に聖霊の風が吹いた出来事ではないだろうか。
私が学生の頃、ある友人に誘われ、教会に導かれたのは、偶然にある駅で出会ったことがきっかけであった。近くにある聖公会を紹介され、そこで洗礼と受按の恵みに預かった。もしその友人に会わなければ、今の私は有り得なかったと思っている。
その友人とは大阪で初めて会う機会があり、その時も教会に連れて行ってもらった事があった。聖霊の風が吹いたのではないだろうかと思っている。
さて、今、私は一人の人を教会に導くことの困難さを思っている。教会は若い人は集まらず、高齢化している現実に直面しているが、聖霊の風が吹いてほしいと思う今頃である。