司祭 ヨハネ 黒田 裕
イエスの受洗〜“向こう”から到来するもの【マルコ1:7−11】
何年も前に京都の国立博物館に大レンブラント展を見に行ったときのことです。チケットを買おうと売り場に近づくと突然、全く知らない年配の女性から声をかけられました。振り向くと、「これ、使ってください」と、余っているとおぼしきチケットを手渡されました。後で知ったことですが、こういうことは展覧会ではままあることらしいのですが、とにかくタダで入ることができて、とても得をしてしまいました。
もちろん絵のほうも想像以上の素晴らしさでした。それにしても一枚の絵によって、これだけ心が動かされるというのは考えてみるととても不思議なことです。その一方で、他でもない自分自身もまたそうなのですが、現代人は、いわば「向こうから語りかけてくるもの」を感じ取ることが益々できにくくなってきているようにも思えます。
絵を見て何かを感じるというのは確かに「私」の感情の動きであり、感受性の問題と言えます。しかし、絵がこちらに投げかけてくる、あるいは問いかけてくる、としか言いようがない事態というのもあるのではないでしょうか。それは何も芸術に限りません。日常の生活のなかで見るもの、聞くもの、触れるもの、接するもの全てがそのような可能性に向かって開いているといっても過言ではないように思えるのです。家庭生活で言えば、例えば生まれたばかり赤ん坊は、当然のことながら夜泣きやお世話が大変で、それで夫婦が疲れ果てるのも確かなのですが、一方で不思議なことに、この無力で弱々しい赤子の存在そのものが私たち大人を力づけ、励まし、慰め、支え、守っているとすら思えることがあります。
そして、ここから考えると、子どもたちを巡る様々な問題も、もしかしたら子どもたちを単に、保護の対象、世話をしてやる対象、としか見ていないところから来るものがあるのでは、とすら思えます。もちろん、子育てをめぐる社会的な環境が整えられる必要もあるわけですが、子どもの存在そのものが、目に見えない何かを大人に与え、大人を支えてすらいる、という側面が抜け落ちて、大人にとって子どもが対象物にしか見られなくなってしまっているとすれば、そこにも原因があるのではないかと思えるのです。
恐らくこれは、あらゆる事柄に対する、陥りがちな現代人の態度でもあるといえるのではないでしょうか。相対しているものを、自分が何かしてやる対象、操作する対象、解釈してやる対象としか見られなくなっていて、それ自身がこちらに語りかけてくる、といえるようなものが見えなくなってきている。もっと言うと、“向こうからやってくるもの”を、感じ取れなくなってきているとはいえないでしょうか。
そんな現代人の私たちの状況に、聖書のみ言葉はこのように語りかけてきます。(※イエスが)「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(10〜11節)
このような現象がいかにして起こりえたのか、といった問いはここでは置いておいて、ここで注目したいのは、イエスさまは向こうから(ここでは「天」から)やってくるものを見て、聞いたのでした。このことから洗礼のある重要な側面に気づかされます。洗礼とは、新たな人生の出発点ですが、その新たな出発とは、現象として普段見ているものを通して、あるいはそれらを越えて、「あちら」から到来するものを見聞きしようとする新たな人生が始まる、ということなのでは、と(…レンブラント展でチケットが「あちら」からやってきたからこう言っているわけではないですが…)。
さらに、向こうから私たちのほうへともたらされるものだけに、それは人為的なものではなく、また単に自分の意思による選択でもありません。神さまによって「私」が探し出され、「選ばれた」のです。
私たちは、今日のイエスさまの姿から、洗礼の意味をもう一度捉え返したいと思います。その捉え返しをする時、私たちが、周囲からいかに多くの語りかけやメッセージを受け取り、いかに多くの人々や物事によって与えられ支えられているかに気づけるはずです。その時に私たちの生活の質は変化しはじめ、新たな生が動き始めるのではないでしょうか。