2008年12月28日   降誕後第1主日 (B年)

 

司祭 サムエル 小林宏治

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」ヨハネによる福音書第1章1節から18節
 「みことばはひととなりわたしたちのあいだにすまわれた。」
 上記の言葉は、聖歌集にある聖歌の歌詞の一部です。日本聖公会の新しい聖歌集に入れられた歌の歌詞です。あまりなじみがないかもしれませんが、わたしにとっては、メロディが頭に浮かんでくるなじみの歌です。このみことばとは、イエス様であり、ヨハネによる福音書の冒頭に示されている言葉、「言」に、由来します。
 聖書には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と書かれています。このことばは神様と共にある存在です。そして、ことばは神様であったと示されています。このことばが、人となってこの世に生まれてきたというのです。
 哲学的というか、神学的というか、難しい解釈をこの歌詞から求めるのではなく、素直にこの歌詞の言葉を聞きたいと思います。神様の独り子であるイエス様が、ただの人として、わたしたちと同じ姿のうちに生まれ、生活を共にされたというのです。
 神様は独り子をわたしたちのためにこの地上に送ってくださったのです。わたしたちの損得という価値観を超えた、恵みの業として、イエス様をこの地上に送ってくださったのです。人が生まれることもとても神秘的ですが、神の子がこの世に生まれたことはもっと神秘的です。わたしたちの理解の範囲を超える出来事だと思います。
 また、イエス様の誕生は、普通の人が経験した誕生とは少し異なるものでした。飼い葉桶の中に、布でくるまれていました。どうして神様のお子がそのようなところで生まれねばならなかったのか。それは、神様が望まれる救い主の姿だったのです。そこに神様の恵みが満ち溢れているように思います。それは貧しいものと共に歩まれたイエス様の生き様をその誕生に垣間見るようです。そして、イエス様のお生まれに接したものが、羊飼いと東の占星術の学者であったという点も不思議に思います。人々から疎外されていた羊飼い、東の占星術の学者は、異国の民であり、彼らがわざわざ遠い旅をしてイエス様を拝みに来たのです。自分の命も顧みず、救い主に出会うことを願ったゆえにかなったことなのです。イエス様に出会うことは人々を大きく変えていきます。そこに神様のみ姿を見ることが出来る人はなんと恵まれていることでしょう。遠く隔たったところに神様がいるのではなく、わたしたちの間に住んでおられるのです。神様と共に歩みましょう。