2008年11月30日   降臨節第1主日 (B年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「クリスマスを迎えるにあたって」

 12月福井市内の4つのキリスト教主義幼稚園が交替で福井刑務所に「クリスマス会」の慰問に出かけています。聖劇やお歌のプレゼントをします。
 驚くことに30年以上も続いているそうです。今年が聖三一幼稚園の当番だそうです。4年に1回のイベントなのですが時折、心配の声も聞こえてきます。「先生、場所が場所だけに安全でしょうね」「罪を犯して服役している男の人ばかりのところに幼い子どもと女性の教師が行って、好奇の眼にさらされ不快な思いするだけではないですか?」などです。
 実は僕もこのお話を聞かされたときは少しとまどいました。でも担当の刑務官の方々や教悔師(刑務所で受刑者の悔悛の指導をしている牧師や僧侶)の先生と準備してゆくうちにこのイベントの大切さが見えてきました。
 クリスマスをお祝いする意味は一体どういうことなのでしょう。すべての人々のために救い主がこの世界にお生まれになったことをお祝いすることであったはずです。限られた一握りの人々のためだけでなく、社会の底辺にいる人々、苦しみあえぐ人々の中にこそお生まれになられたイエスさまでした。泊まる宿もなく家畜と同じ部屋でのご出産、飼い葉おけに寝かされた幼子であるからこそ私たちが苦難の中にあっても生きる希望を抱くことができるのです。宮殿に生まれた王子で着ているものが絹の産着でなく藁の布団に包まっていればこその救い主であるのです。
 今夏、北陸伝道区の霊交会の福井聖三一教会でご講演くださった大阪の釜ヶ崎で働く本田哲郎神父がこんなふうに言われました。「イエスさまは三角公園で食料の炊き出しをする側ではなく、空腹を抱え、列の後ろで自分も握り飯をもらえるかどうか心配しているおじさんたちのそばに一緒に並んでいると思う」本当にそうだと思いました。
 罪を犯して反省の日々を過ごしている人々、更正して社会復帰しようとしている人と愛や希望を少しでも分かち合えたら良いことと思います。
 毎年、聖劇を観賞した受刑者たち(もちろん観賞参加者は希望者で許可されたものだけです。刑務所はその中で規則を守れない者、協調性に欠けた者、暴力的な者はどんどんその自由を制限剥奪されていきます)は、子どもたちの純粋無垢な演技に涙するそうです。
 残してきた家族を思い出すのか、罪深い自己を見つめるのか、ともかくも愛に照らされた人間は素直にしか行動できません。
 子どもたちにはまっすぐ説明してたとえ罪を犯したものたちであっても偏見をもつことなく関わってゆく優しく大きな心を持つことの大切さを教育したいと考えています。
 11月30日から降臨節です。すばらしいクリスマスをお迎えくださいますようお祈り申し上げます。