司祭 セオドラ 池本則子
「互いに大切にしなさい」
「愛し合いましょう」。今までこの言葉を説教でどれほど口にしてきたでしょうか。愛がないから殺し合い、傷つけ合ってしまう。イエス様の「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」と言われた言葉を守り、すべての人が愛し合う世の中になれば平和な世界が実現できる。しかし、一向に平和の兆しが見えない。見えないどころか、ますます自己中心的な人々が増え、他者の命が軽んじられている。なぜ、愛し合うことができないのか。ますます「愛し合いましょう」と言いたくなる。そんな思いでずっと過ごしてきました。
今年の9月に『目から鱗が落ちる』話を聞きました。「イエス様は『隣人を自分のように愛しなさい』という掟を最も重要な掟の一つとしてあげられた。しかし、イエス様ご自身がファリサイ派等の論敵を愛していたとは思えない。しかし、愛してはいなかったが大切に思っていたからこそ、十字架につけられることになってまでも批判し続けてこられたのではないだろうか。私たちも人を愛さなくてもいい、好きにならなくてもいい、嫌いでもいい、でもその人を大切にすることはできる。だから、『互いに愛し合いなさい』ではなく、『互いに大切にしなさい』」。大阪で行われた人権セミナーで、本田哲郎神父がこのような話をされました。
「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25:35−40)。聖霊降臨後最終主日の福音書に記されたイエス様の言葉です。ここに記されている行為は別に愛していなくてもできることではないでしょうか。飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人を見舞う。このようなことをするのはその人を愛しているからではなく、その人を大切にしているからできる、と言えるのではないでしょうか。
私たち人間がすべての人と愛し合うことは不可能です。人間は一人ひとり、性格も違えば、考え方も違います。育った環境や遺伝子も違います。だから、どうしても受け入れられない人が一人や二人いても自然なことだと思います。好きになれない人がたくさんいても仕方ないことだと思います。自分のことさえ愛せない、ということもあるでしょう。それでも、人を大切にすることはできるのではないでしょうか。なぜなら、自分のことを愛せなくても、また人から愛されたり好かれたりしなくてもいいけれども、でも大切にはして欲しい、嫌な思いはさせられたくない、と思うのが普通ではないでしょうか。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。大きな愛の業は行わなくても、人を大切にするちょっとした行為でイエス様はそれを自分にされたことのように喜ばれます。
「互いに大切にしましょう」。これこそが、平和を実現できる第1歩なのかもしれません。