2008年11月9日  聖霊降臨後第26主日 (A年)


司祭 ペテロ 浜屋憲夫

1. 本日の福音書は、イエス様の譬え話ですが、先週までの福音書とは随分様子が違う話です。先週までは、イエス様とユダヤの指導者達の対話、対話というより論争のような話が続き、最後にはイエス様の当時のユダヤ指導層に対する誠に激しい非難が語られたのでした。 そして、それらは皆イエス様が十字架へと追いやられるための伏線になるという流れでした。
   
2. しかし、本日の箇所は、ある意味でそのイエス様の十字架の後のことを語っているようですね。 イエス様の十字架は、それで終わりではなく、ご復活という大きな出来事と一体となって私達に意味のあるものになりました。しかし、クリスチャンの信仰というものは、イエス様の復活で完成ということではありません。イエス様の御復活は、最終的には、終末にいたって完成するというのがキリスト教の基本的な考え方です。
   
3. 御復活の後キリスト者は、その御復活の命に預かり、生かされながら、まだまだ完成されていないこの世の終わり、『終末』に向けて希望を抱きながら生きる。この世の生を終えた人も、天国でこの『終末』を待っているというのが、キリスト教の歴史観ですね。
   
4. 本日の福音書は、少し読んだだけでは、わかったようなわからなような印象を受けるお話ですが、これが、そのように終末に向けて生きるクリスチャンの姿勢を教えている話なのだということを踏まえて読むと大分わかってくるように思います。
   
5. そして、今週は特定27の日課なのですが、今週と、来週の特定28、そして次の特定29、これは教会暦の最後の主日になりまして、教会暦では降臨節前主日といわれますが、この3回の主日は、カレンダーの終わりということもあって、3回とも今申し上げましたような、世の終わり、『終末』について語られる聖書が朗読されます。
   
6. 本日の福音書の内容自体は、先ほども申し上げましたように、言葉の意味については、全然難しいお話ではありません。このお話が何の譬えなのか、そして私たちがこの譬えで何を学ぶのかが、少し難しく、また重要なことになります。
   
7. 10人の花嫁がいます。婚礼の準備をして、花婿の到着を待っています。しかし、花婿の到着が遅れます。婚礼は夕方行われる予定だったようですが、花婿の到着は深夜まで遅れてしまいました。そして、10人のうち、5人は賢い花嫁で、逆に残りの5人は、賢くない花嫁だったと言われます。賢い花嫁というのは、花婿を迎えるために、手にしていたランプの油の予備を準備していた人達、賢こくない花嫁というのは、その油を用意していなくて、花婿が来たときにはもうランプの油が無くなっていた人達です。結局、結婚式をすることが出来たのは、賢い花嫁たちだけであったというのです。
   
8. そして、このお話の最後に教訓として語られるのは、『だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』 という言葉です。
   
9. 学者達は、この話は、マタイの当時の教会の状況を反映していると言います。どんな状況かというと、『今すぐにも、終末は来る』という切羽詰った信仰の中で初代教会の人達は生きていたのに、なかなかこの『終末』がこないという状況があった。これを、『終末の遅延』という言葉で言うそうですが、教えられた終末がなかなか来ないので、いらいらしたり、だらけたりするような状況があった。
   
10. ある意味で、信仰的に、ぐらつくような人達がいて、この話はその人たちに、その時代にあってどのように信仰的に生きるのか教えるために書かれた物語ではないかと言うのです。
   
11. 先ほどから、世の終わり、『終末』という言葉を全然説明しないで使っていますが、よく考えますと、ヨーロッパのような古くからキリスト教であった社会に育っていない私達の多くは『終末』という言葉だけを聞いても、私達の多くはあまり実感が無いかもしれません。私のコンピューターのワープロは、『しゅうまつ』と打つと、何回やっても今私達がテーマにしていますキリスト教の『終末』ではなく、Week Endの『週末』を出してしまいます。
   
12. そのように、キリスト教用語としての終末という言葉には私達は確かに慣れてはいませんが、私達その終末という言葉の意味することが全くわからないかといいますとそうでもないと思われます。
   
13. 仏教には、『末法思想』という考え方がありまして、このキリスト教の終末と少し似ています。(正・像・末の三時説に基づいた思想 「末法の世」というのは教えを語っても聞き入れられない時代) 親鸞聖人、法然上人というような方は、この末法思想を背景に、この汚い現世から、綺麗な浄土に移ることを最終目標になさったのですね。『厭離穢土、欣求浄土』と言います。

註:釈迦の入滅後、二千年を経過すると、一万年間は釈迦の教えだけが残り、悟りを得る者はいなくなるとするのが末法思想であり、中国から伝えられた。平安時代後期は飢饉や日照り、水害、地震、疫病の流行、僧兵の抗争が続き、貴族も民衆も危機感を募らせ、末法の到来におびえた。

   
14. 私達が自分が生きている世界を振り返ってみますと、いまだに戦争は無くなりませんし、地震とか津波が異常に多いように思われますし、またニュースを聞きますと、青少年の異常な行動が、本当に多い、また古い世代と若い世代の感覚が、誠に違ってきている、また豊かになったのは良いことだが、貧しい時には無かった、いろいろななんとも不思議な現象が多くなって、何となく、私達の心が落ち着かない。 何か、世の中がおかしいのではないか。
   
15. そういうことはどうでも良いという人達もいます。しかし、そういう不安をまともに受けて、やはり、このままではいけないと思う人は少なくないと思います。今の世界を決して良いと思われない。やはり、この世界は終わりに向かっているのではないかと思ってしまうのですね。私は、日本があまりにもお金持ちになって、こんな状況がいつまでも続くわけはないと、思っていますが、こういう気持ちもやはり、終末観に近いものだと思います。
   
16. 初代教会の時代は、ヨハネの黙示録に見られるように、そのような終末観がとても強い時代だったようです。ローマ帝国の状況も乱れていましたし、またクリスチャンは迫害も受けていましたから、今すぐにでも、世の終わりは来るという思いが初代教会の人達皆に共有されて、その緊張感の中で信徒達は心を合わせて生きていた。
   
17. そして、そのような状況の中では、信仰についてはしっかりしていた。しかし、マタイの時代には、そのような気持ちがすこし緩み始めたようなのですね。すぐにでも来るはずの世の終わりはまだこない、一体どうしたのか。 そのような問いへの、答が先ほど申し上げました『だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』という言葉になるわけです。
   
18. 今、『終末』ということについて、非常に手短にサッと説明をさせていただきましたが、しかし、実は、この終末の話は、新約聖書の中でも一番難しい話ですね。 私なども、本当は、終末のことはあまり説教したくないというのが、本音です。 しかし、そういうわけにも行きませんから、いろいろ勉強するわけです。今日は、その勉強した中で、私が一番感銘を受けた、終末に関する説明を皆様に紹介して、お話を終わりたいと思います。
   
19. それは、山田晶という先生が「アウグスチヌス講話」という本に書かれてある説明なのですが、人がそのような終末的時代に生き、終末的不安にとらわれたときに、それを解決するために大きく分けて二つの態度、心の姿勢をとるというのです。
   
20. 一つは、いわゆるペンテコステ的な態度。集団で興奮して過激な振る舞い、行動に走るタイプ。それは、時には破壊的な活動にもなります。そのように全体主義的な興奮状態の中で自分の不安を溶かしていくというやり方。
   
21. 今は終末なのだから、日常的なことは意味がない、普段だったら許されないことも今だったら許されるし、またやらなければならない。殆どの革命、またテロと呼ばれるものは、このような精神状態なのかもしれません。オウム真理教や、イスラムの自爆テロはそういうものの一つの典型かもしれません。
   
22. また、それほど極端でなくとも、何か集団的な興奮状態に自分が入ることによって自分の不安を解消するという生き方は確かにありますね。
   
23. そして、もう一つは、そのような集団的興奮ではなくて、逆に深く自分の中に内省していくタイプ。このような、不純な世に見切りをつけて、自分は一人、終末の今を純粋に生きるのだというようなタイプですね。山に修行に入る。毎日黙想、瞑想にふける。そういう風に生きることによって、自分の内面の中で、世が自分に与える不安から遮断された世界を生きるという生き方ですね。これもまた、ありうる話ですね。
   
24. そして、山田晶先生は、この二つのタイプを挙げられた上で、キリスト者が終末にたいしてとるべき態度は、この二つのどちらでもない、この二つの姿勢はどちらも、終末、世の世の終わりということに関して、間違った態度だとおっしゃるのです。 それは、この二つの態度ともに、終末、世の終わりというものを、勝手に自分に引付けて、先取りしてしまっている態度だからだとおっしゃるのです。
   
25. 今日の福音書にあったように、世の終わりというものに関しては、『あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』というのが、唯一正しいことなのですね。終わりは、神さましか決定できないのに、自分で終わりを決めてしまっているのが、先に述べました二つの典型的な終末に関する姿勢なのですね。
   
26. そしたら、正しい態度は何なのかといいますと、『待つこと』だとおっしゃるのです。今日の福音書の言葉でいいますと、油を用意して、『目をさまして』待つのですね。終わりが来ないからと言って、痺れを切らして待つのをやめて、自分で勝手に行動してしまうのは、終わりというものが、何なのかわかっていないというのです。
   
27. 日常のことを粛々として神様の与えられる時を待つ。それが、本当に信仰なのだとおっしゃいます。自分が神様に成り代わって、終わりをもたらしてはならないのですね。そして、山田先生が、おっしゃるのは、そのように待つことが人を浄化するとおっしゃいます。自分で解決できない事柄を抱えながら、しかし、あきらめたり、むちゃくちゃな行動もしないで待つことを生きるのが、聖書が教える本当の終末に向かう姿勢だというのですね。未解決を恐れない、汚れた世にありながら、それを嫌うことなく、その中で待つ。
   
28. この説明を読んだ時、十分に説明はできないのですが、ああそうなのかと思ったのでした。
   
29. 今日の福音書の中のランプに入れる油こそ、この『待つ』という信仰のように思われます。この油は『神さま、私はここにいます。あなたが来られるのをお待ちしています。来て下さい。』という信仰の印のように思われるのです。
   
30. 本日の福音書から、『待つ』という信仰について、もう一度考えてみたいと思うのです。