司祭 マーク シュタール
エゼキエルは、イザヤ、エレミヤに続く最後の偉大な預言者でした。そして、彼の功績は、どちらかというと悲運なものでした。彼の終盤の預言は、贖罪と回復でしたが、それは、彼の神の偉大さ、神聖さに対する畏れからくるものでした。今日のみ言葉は、イスラエル人社会の文化に少し変化が感じられる所です。なぜなら、エゼキエルは、彼らに新しい掟を示しているからです。
人類の文明の黎明期より、人は、先祖の罪から逃れられないという考えが概してあったと思います。もし、ある人が罪を犯したなら、その罪は次の世代へと受け継がれ、罪を犯した者の子、または子孫と言われるのでした。研究者によれば、この概念は古代エジプト、中国、日本、そしてオーストラリアのアボリジニやマヤ、アステカ、インカでも見られるものでした。エゼキエルが今日のみ言葉のはじめにこのことに触れていますが、彼はそれを肯定しているのではなく、否定しているのです。エゼキエルは、主の「全ての命は私のものである」という嘆きを聞きます。エゼキエルは、繰り返し、一人一人の責任を説いています。それは、究極的には、一人一人が悔い改めるチャンスがあることを示しているのです。「イスラエルの家よ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」
神様にとっては、人または国や歴史は避けられない結末を運命づけられてはいないのです。私たちは神様という選択があるのです。私たちの両親がしたことは、重要ではなく、DNAも関係ないのです。私たちはそれらのものから解放され、神様のもと、神様に守られ、運命を変えることができるのです。エゼキエルが言うように、今より後、神様は我々を常に愛されている。だから、誰が私たちの敵となり得よう。
パウロは、フィリピの信徒はキリストと思いをひとつにしなければならないと説いています。彼らにこのことを理解させるために、彼は、キリストの存在を3つの視点から説明しています。まず、創造主のキリスト、2番目に肉となったキリスト、そして3番目に復活のキリスト。創造主のキリストとは、神という形で最初から存在していたということ(ヨハネ1−1〜14、ヘブライ人への手紙1−2〜3)。復活のキリストとは、神様がキリストを死から復活させ、以前の栄光ある姿に戻すことで、全ての人は「イエスキリストは主である」と告白するべきだということです(ローマの信徒への手紙14−9〜11)。王の王、主の主(ヨハネの黙示録19−16)。今日のテーマは、創造主の主と肉となられた主、そして復活の主に焦点を当てることです。イエスは勝手に神を名乗ったわけではありません。むしろ、彼は人となり、人に仕え、自分を低められました。自分の神聖さを誇示したり、権威を求めることなく、人としての苦しみをそして死を引き受けられました。神様と同等の地位を求めることなく、権威を捨て、奴隷となられました(コリントの信徒への手紙1、8−9)。彼は栄光を求めることなく、人々に寄り添い、自らを人間に低められ、死を受け入れました。ご自身の義に頼らず、堕落した世界をあがなわれました。
このキリストの生き方に本当の栄光が隠されているのです。それは、信じる者にしか見ることができません。パウロが呼びかけられた、肉となられたイエスの子孫フィリピ人、そして、われわれ教会に連なる者が一致して、自分をへりくだり、隣人への愛を示せるように。
パウロがあちこちの教会で呼びかけたことはしばしば、見向きもされませんでした。今日のたとえ話でも表れています。イエスは、ユダヤの聖職者の話を続けます。ぶどう園のたとえ(神の国、イスラエルをさす)がまた出てきます。今回は、イスラエルの神の子達を二グループに分けています。一グループは、聖職者達で、律法には従うけれども、イエスには背く。もう一グループは、社会的弱者や罪人で、彼らは律法は受け入れなかったが、悔い改め、イエスに従った。彼らは、先のグループのやっかみを買いつつ、神様の御心を見事に反映しました。
今日のみ言葉3カ所で何が言われているのでしょうか。エゼキエルでは、祖先の罪からは我々はもはや解放されているということ。神様が求められているのは、そんなことではなく、個人個人が神様と向き合い、責任を果たしていくということ。フィリピの信徒への手紙では、イエスの思いと1つになること。そして、福音書では、イエスの精神が律法よりも真実であるということ。これらを合わせると、神様に頼ることの豊かさが分かります。信頼は、嘘によって裏切られ、また行いを伴わない約束でも失われる。良き羊飼いであるキリストと神様の変わらぬ愛に頼ること。自分たちの揺るぎない歩みと神様への信頼により、私たちは真の道を行くことができるのです。(詩編25−8〜10)