2008年9月14日   聖霊降臨後第18主日 (A年)


司祭 クレメント 大岡 創

「赦し 赦され」〜仲間を赦さない家来のたとえ〜

 今日の福音書(マタイ18章21節〜35節)でイエスさまは「ゆるし」について譬えをもちいて語っておられます。その中で天の国を「借金を清算する王」にたとえています。一万タラントンという負債は当時の六千万日分の賃金に相当したといわれています。つまり返済など出来る額をはるかに超えていることを意味します。しかし、「返済を約束する家来」を返済できるはずがないことを承知の上で王は赦します。「憐れに思って」(27節)とあるように王は自分の金を取り戻すことよりも、この家来との「関わり」を大切に思ったのです。
 冒頭で「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」とペトロとイエスさまのやり取りが記されています。赦しの回数を問うペトロにとって、それは自分の受けた損害・被害・犠牲・傷を我慢することでありました。おのずと我慢するには限度がつきものです。一方、イエスさまは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われた意味は「どこまでも赦しなさい」でありました。イエスさまの言う「赦し」とは我慢することではなく、「赦すことに限界・限度を置き、限定をしようとする」わたしたちの心こそが問題なのだと言われるのです。
 つい最近のことですが、お隣の家から電話があり「自宅のトイレが詰まった原因はお宅の敷地にある桜の木の根ではないか?困っています!」という訴えでありました。たまたま昨年これと同様の原因で水道管の破裂やトイレの漏水で困惑、苦労して解決したことがあったので相手の気持ちはとても理解できました。それよりも「いつ言い出そうか」とずっと悩んでいたと言われ、恐縮した次第です。話し合いをした上で、ことの原因と思われる樹齢40年以上のりっぱな桜の木を伐採する苦渋の決断をしました。それでもお隣さんは「何か、まだ心がスッキリした感じではないんです」と言われる。「とにかく木を切ればいいんだろ」という高慢な気持ちが伝わったのか?とも思いましたが、どうやら自分が言い出したことで、あとで恨まれないか、悪口をたたかれないか不安だったようです。ご本人からも「木を大切に思う気持ち」をお聞きし、「これからも長いお付き合いでいたいですからね」と、やっとお互いの着地点を見出しました。
 福音書に戻りますが、本当の損害とは、金銭の被害ではなく相手との交わりが損なわれることだと譬えを通して教えられています。それは相手の訴えや思いに向き合う気持ちによって保たれるものだと言うのです。今回のお隣さんとのやりとりで随分と試されました。
 たくさんの借金を赦してもらった家来は僅かな借金のある仲間を赦すことはできませんでした。それに対して王は「一度回復してもらった関わりを自ら断ち切る者」として厳しい処分をくだしました。私たちは皆、自分ではどうすることもできない失敗や過ちを神さまの憐みのなかで赦され続けてきたものです。そのことを知りつつ赦せないでいます。でも、むやみに「赦しなさい」「愛しなさい」と言われているのではなく、人を赦せないでいるわたしたち(わたし)を赦すためにイエスさまはわたしたちのところにこられたのだということを覚えたいと思います。