執事 アグネス 三浦恵子
本日の福音書【マタイによる福音書14章13−21節】の「5千人の供食」の箇所は、あまりにも有名な奇跡の箇所ですが、実は、私自身この奇跡行為をどのように解釈すればよいのか思いをめぐらせている箇所です。昔、ある信徒さんがニヤニヤ笑いながら教えてくれました。ヨハネによる福音書の「5千人の供食」の箇所では、少年が「5つのパンと2匹の魚」を持っていることが記されています。それは、イエスと弟子が群集のための食事について思案しているのを少年が聞いて、自分の持っていた「5つのパンと2匹の魚」を無邪気に差し出したというのです。そして、そのような少年の姿を見た大人たちが心を動かされ、自分たちも、持っている食料を皆出しあったために人々が満たされただけなのさ、と話されました。結局集まっていた群集はそれぞれ、服の中に自分のパンを持っていたということになります。私も、なるほど、そのような理解もあり得るかもしれないと思いました。
女と子供を別にして5千人という数は、少しオーバーに書いてあるとしても、あまりにも大きな数に、私たちの力の限界を感じて、無力を認めてしまいます。ですから、むしろ、先ほどの信徒さんが話されたように、1人1人の持ち物を出し合ったことで、満ち足りたという理解をした方が、私に安堵感を与えてくれました。その安堵感は、あたかも、今の「世界の飢餓」についての問題、つまり食料の分配が平等に行き渡っていないという、私たちに突きつけられている現実の課題に対して、富める国と貧しい国の格差の問題として理解し関心はあっても、諦めてしまっている、それと良く似ていることに気付かされます。
イエスが、行なわれた奇跡行為は、今日の福音書の箇所のように、群集に食べ物を提供した物語や、婚宴のためのぶどう酒を供える話と、魚の大漁の物語など日々の糧の話と、病気や障害そのものを治癒されるという身体的な物語とがあります。イエスは日毎の糧で命を養い、病気の体を健康にするという力が神さまから与えられていました。
この「5千人の供食」の箇所で、心が痛む言葉があります。それは、押し寄せてくる群集を目の前にして、弟子が「夕暮れになったので解散させよう、自分で食べ物を買いに行くでしょう」と言う言葉です。その状況では、だれでもが思い浮かべるであろう提案であるため、以前は抵抗感なく聞き逃していました。解散させて、自分たちの食事は自分でまかなってもらうというのです。しかし、イエスは、弟子たちに「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と命令なさいました。それは、これまでのイエスの癒し行為を目前に見ていた弟子たちへの、教え導く促しの言葉として受け取ることができるのではないでしょうか。
イエスの弟子は、「5つのパンと2匹の魚しかありません」と、即答します。「しかない」という表現が、弟子の失望感と焦燥感を伝えていると同時に、私自身の、世界の富の不平等という問題への諦めと逃避と重なるように聞こえてきます。イエスは、方々の町から歩いて後を追って集まって来た1人1人に深く憐れみを注がれ、多くの病気を癒されてからなお人々の空腹のことまでも心配されたのです。イエスを求め、歩いて来た群衆には、いったい何が起こっていたのでしょう。「方々の町から歩いて後を追った」ただならぬ状況があったということは推測できます。彼らを見て深く憐れまれた。イエスの目には、救いを求める集団として移ったのです。イエスはご自分の権威ある力をすぐにはお出しにならず、弟子の振る舞いを指摘します。「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と命令なさいました。それから、イエスは、群集を草の上に座らせ、弟子と群集の目前でお示しになりました。イエスは「パンを取り」「祈り」「パンを裂き」「群集に与えた」この4つの行為によって、私たちが主と共にある聖餐式と結び重ねる行為として読み取ることができます。ただならぬ状況にあったと思われる群集とは、言葉も交わされません。「全ての人が食べて満腹した」と記されているだけなのです。一言も記されていない群集は、満腹した。ここに、単に食べ物によっておなかが満たされたということだけではなく、心の満腹を読み取れるように思うのです。
私たちは、心が渇き、人との出会いを求めて歩く時があります。人との出会いの中でも、一言も用件に触れずに無難な会話だけが行き交うこともあるでしょう。言葉に出せずにいることもあるのです。弟子がしたように、「自分で食べ物を買いに行くでしょう」という言葉は、救いを求めて来た人々は失望することになるでしょう。ここまでやっと歩いて来た人々は、もうこれ以上歩けないからです。「満腹する」とは、食事によって空腹が満たされた状態と、心の渇きが癒される状態も「満腹する」と言えると思います。むしろ心の渇きの方が危機的状況にあるということもありえます。イエスは、「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と命令なさいます。この声は、私たちに向けられているように聞こえてきます。救いの眼差しで求めている人に、十分なパンはなくとも、手を差し伸べ、孤独の中に置き去りにすることがないようにしたいと思うのです。
ボンへッファーという人は、ナチの収容所に捕らわれていた時のことを書いています。「1つのパンを、皆で少しずつ分け合っていた時は皆満たされていた。しかし、ある時、1人の人が、『これは私のパンだ』と言った時から、本当の意味の飢餓が始まった」と。満腹するとは、人の愛を確かめ合えた時に得られるということを教えているのではないでしょうか。主が招かれる聖餐式で、イエスの体と血によって、主が私たちを養い、心が満たされることを感謝すると共に、神さまから、私たちも委託されているということを思い起こしたいと思います。