司祭 ヨハネ 黒田 裕
救い主は「愚か者」に乗って
ある時、妻からこんなことを訊かれた。「どうして、ストールとか祭壇の布に『ろば』がないの?」「十字架にかかるためにエルサレム入りをするイエスさまを乗せる、すごく大事なつとめを果たしたのに。なんだかロバが可哀想。」という。
ご存知のとおり、礼拝・祭壇で使う布にはいろいろなキリスト教のシンボルが刺繍されている。数え上げたらキリがないが、植物なら麦とか百合とか、動物だったらイエスの犠牲を表わす小羊とか、また、聖霊をあらわす鳩などもある。
でも、ロバ、というのは確かに見たことがない。第一、どうしてロバがないのか、などと考えてみたこともなく、その質問に思わずうろたえた。
そこで、いろいろ考えてみた。だいいちロバって格好悪い。頭が大きいし、足も短くて太い。それから手元にあった辞書を引いてみると、そこには「粗食に耐え忍耐力が強いので、おもにヨーロッパで農耕・運搬などに使う。」「ばか者、強情な人、頭が悪く、行動もにぶくて間の抜けていること。」と、まぁさんざんな書かれようである。要するに、あまりスマートじゃない、愚鈍ですらある。シンボルになるものはやはり、ある程度格好が良くないとダメなんじゃないか―。
それから、たしかにイエスを乗せたが、ロバ自体が、たとえば小羊のようには、イエスを表わすという訳ではない。また、神の永遠性とか聖霊を表わすわけではない。そんなわけで、シンボルとして使われていないのではないか、と思う。
こんなことを、本日の旧約を読みながら考えていた。が、確かにシンボルマークにはなっていないが、実はこのロバ、とても良くイエスを表わしているなあ、と思う。イエスがエルサレム入城の際、ロバを選ばれたのには必然性があったのだ。初代から今にいたるまでキリスト者たちは、この預言(本日の箇所)にイエスの姿を重ねたのだが、預言者ゼカリヤは神の言葉を受けて、全イスラエルに救い主が来るという希望のメッセージを語る。そして、その時には戦車や兵器が絶たれ全世界に平和が告げられ、囚われ人が解放される―。ただ、その時やってくる王というのは「ロバ」に乗って来る、という。
たいてい王様は馬に乗ってやって来る。馬はロバと違って支配者のシンボルといえる。形も格好いいし、それから走るスピードも早いし優雅で、あらゆる点で本当にスマートだ。だから、いつの時代もお金持ちや貴族や支配者は「馬」を好む。今でもそうだが、王様や軍隊のパレードになると必ずといっていいほど馬が出てくる。
ところが、ゼカリヤの言う王さま・救い主は全く違って、ロバに乗ってやってくる。ロバが表わしているように、世俗の王様と違って権力をもたない、つまり高ぶる王ではない。彼が言うように、勝利を与えられた者ではあるが、その勝利もこの世的な「勝利」ではなく、自らが犠牲となって人々を救うという、この世的には全く「敗北」にしか見えないような形での救い主なのだ。そういうメシアをキリスト者は信じており、また、そうであるがゆえに、キリスト者はイエスを、神を、ありがたく思う。
私たちが信じる神は、軍馬に乗ってやってくるような支配者ではない。それに、見栄えの良い、強そうなメシアを選ぶ方でもない。因みに、イスラエルの理想化された昔の王様ダビデが選ばれるシーンで、神は預言者サムエルに興味深いことを命じている。ダビデを選ぶにあたって、神は「容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上16・7)と言っている。
ここで「人は目に映ることを見るが」と言われているが、やはりこれは私たち人間の一般的傾向といえる。私たちはどうしても、見栄えのいいもの、目立つもの、格好いいものに目を奪われる。しかし、神の価値観はそれとは全く違って、人間一般の価値観の逆をいく、いやもっといえば、人間の価値観とは全く異質で、全く自由に神はご自身の眼で見て選ばれる。
私たちの信じる救い主はロバに乗ってやってきた。救い主はロバに乗って、「愚か者」に乗ってやってきた。イエスご自身が、一般の価値観からいえば「愚か者」となられたと言える。しかし、そのような方であるがゆえに、自らが十字架に架けられ、人間の罪をあがなう方となられた。本日の福音書の言葉でいえば、「柔和で謙遜な者」というのが、ロバがあらわしているような「愚鈍さ」につながっていくようにも思えてくる。
そのような方によって、私たちは重荷を負うことから解放され、休ませていただき、安らぎを得ている。そのことをあらためて、思い起こしたい。