司祭 ヨハネ 古賀久幸
「わたしよりも父や母を愛する者は、・・わたしより息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」
−イエス・キリストの言葉−
イエス様の言葉は人々にとって心地よく響くばかりではなく、聞く者の人生を激しく揺さぶり決断を迫るものでもありました。上記の言葉は明治時代、忠孝の教えに著しく反すると耶蘇教排撃の根拠とされたものです。果たしてイエス様は家族を解体して出家しサティアンにこもれと扇動したオウム真理教の教祖のような方なのでしょうか。
イエス様はある人には「ついて来い」と強く命じておられます。その中には生業も家族も捨ててついていったヤコブやヨハネのような漁師もいました。徴税人レビはイエス様に「ついて来い」といわれたとき、喜んで大パーティまで催しました。聖書にはその後のことは記されていませんが彼らの家庭は大黒柱や後継者を失い崩壊したのかもしれません。一方、病いの家族を癒してくださいと訪れる人々の願いを聞かれたイエス様は、奇跡によって家族の危機を幾度となく救われています。また、亡くなった家族を生き返らせて、死によって断ち切られた絆を再び結び付けられました。
家族というのは不思議なものです。自分ではどうしようもないしがらみやなりゆきで繋がっている部分もあります。そのあり方は複雑多様で、安らぎの心の基地でもあるし、確執の修羅場であるかもしれません。
想像でしかありませんが、この激しい言葉をイエス様は母マリアに向かって言われのではないかとわたしは考えています。マリアは受胎のときからこの子は自分の子でありながら、神の子のであるという葛藤を背負った女性でした。貧しさの中から望み見たささやかな家庭の幸せもマリアにはかないませんでした。やがて十字架の上で血みどろになり苦しみにのたうつわが子の姿をなすすべなく凝視せねばならなかったのです。わが子の死を看取るという、母にとってこの世界でもっとも痛ましい経験をさせなければならない、そのつらさや申し訳なさを胸に秘めながらイエス様は母にこの言葉を語られたのだと思うのです。言葉だけとらえるとまさしく非情にしか響きません。しかし、復活という光に照らしてこの言葉を思いめぐらせるとき、人間的な家族の情愛や血のつながりを超えた絆で再び強く結び合わされる愛を感じます。家族が閉鎖的になってゆくわたしたちの社会においてもう一度、家族であるがゆえに神様の光のもとでその関係を見つめたいものです。