執事 ヨブ 加納嘉人
聞いて行う
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタイによる福音書7:24)
本日の福音書は、マタイによる福音書第7章21−27節のみ言葉です。「山上の説教」と呼ばれる部分の最後に位置しています。ここでイエス様は、わたしたち一人ひとりに対して、二つの選択肢を示されます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」のか、あるいは、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない」のか、あなたはどちらを選ぶのか、とお尋ねになっているのです。しかし、「聞いて行う」ことを選んだ場合には、岩を土台とした家のように倒れず、「聞くだけで行わない」ならば、砂の上に家を建てたようにひどい倒れ方をする、と言われるのですから、わたしたちの選ぶべき答えはすでに決まっているように思えます。これは、信仰か行いか、という問いではなく、「聞いて行う」か「聞くだけで行わない」か、という問いなのであります。イエス様のみ言葉を聞くことと行うことの間には、何か密接な関係があるようです。
ところで、わたしたちが持っている知識やお金・財産というものは、それをどのように用いるか、どのように処理をするかによって、その価値がずいぶん変化するようです。それを抱え込むのか、自分の家族のために用いるのか、誰か他の人のために使うのか、はたまた運用するのか、浪費するのか、など選択肢は無限にあります。わたしたちが持っているもの、手に入れたものの価値は、それをどのように生かして用いるか、というわたしたちの行動次第で、いくらでも上がったり下がったりすると言えるのではないでしょうか。わたしたちの内に神様から与えられた賜物があるとするならなおさらのことです。それらは自分でもっているだけでは何にもならない。神様から受けた恵み・賜物は、分かち合い、提供し合い、与えあうことによって、さらに恵みが増し加わるのであります。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10:17)
わたしたちの信仰はイエス様との出会いによって、イエス様のみ言葉を聞くことによって始まります。福音書の中でイエス様は、人と出会うとき必ず、その人に何らかの行動を促しておられることに気づかされます。イエス様はわたしたちに対して、イエス様の働きに参加するように招いてくださっているのであります。
こんな無力なわたしにも、神様の働きに何らかの形で参与するために賜物が与えられていることを信じたいと思います。いや、無力さのうちにこそ、神様の力があらわされることを信じたいのであります。
激動するこの現代世界にあって、イエス様ご自身という堅固な岩が、わたしたちの歩みの中で何よりも力強い土台・支えとなってくださることに力づけられたく思います。
主に感謝。