2008年5月4日  復活節第7主日(昇天後主日) (A年)


司祭 ペテロ 浜屋憲夫

1. 本日の特祷には、『どうかわたしたちをみなしごとせず』という言葉があります。何となくインパクトのある言葉で、何かスッと読み過ごせなく、『ハッと』させられる言葉です。 森主教さんの祈祷書の解説の本によりますと英国の祈祷書では、この言葉は「慰めなき」と訳されていて、「みなしご」という言葉で、この特祷を祈っているのは、日本聖公会だけであるそうです。
   
2. 私も実際に古い英語の祈祷書を調べてみましたが、森主教さんが書かれているとおり、この言葉は、「comfortless」と書いてありました。この解釈ですと、「どうか私たちを、慰めが与えられないものとせず」ということになるのですが、私は、『どうかわたしたちをみなしごとせず』という表現はとてもインパクトがあって良いなと思います。
   
3. 一旦、もうイエスと一緒にいることは出来ないのだと諦めた弟子達が、また再度の別れを師イエスとしなければならないのです。ずっと、このまま自分たちと何故一緒にいて下さらないのだろうと思わなかったわけはないと思います。
   
4. しかし師イエスはまた、自分たちをおいて自分たちが一緒にいくことが出来ないところにいってしまわれる。そんな弟子達の不安を、『みなしご』という言葉がよく表していると思います。しかし、イエス様は弟子達をおいていかなければならなかった。どうして、そうなのかということが今日の主日の一番のテーマであると思います。
   
5. そして、その答えもまた今日の特祷の中にやはり書いてあると思います。それは、先ほど挙げた『どうかわたしたちをみなしごとせず、』という言葉にすぐに続けて語られる、『聖霊を降して強めてください。』という言葉です。
   
6. 私たちは、強くならなければならないのです。いつも、イエス様に一緒にいて貰わなければならないのではない。このへんは少しデリケートで、ちょっと変な言葉ですが、イエス様と離れていても一緒にいるというような生き方が出来るようにならなければいけない。それが、本当に信仰的に自由になる生き方。自立した自由な信仰者にならなければいけない。
   
7. イエス様は、「私はもうあなた方を弟子と呼ばない、あなた方は友であるとおっしゃいました。」イエス様の弟子達にかける願いは、弟子達がいつまでも自分に頼るものではなく、本当に自立した人として、信仰者として立っていくことでした。そのために、いったんは、自分たちがまた、『みなしご』になるようなことを経験しなければならないのです。
   
8. 聖パウロは、何回もくどく、くどく、繰り返し語ります。「あなた方は、信仰的に成熟しなさい。子どもであってはいけない、固い食物を食べれるようにならなければならない。」
   
9. イエスが生きておられた時の弟子達は、イエス様が何度いっても最後までイエスさまの生き方を理解することはでなかった。愛する師イエスの死という痛烈な経験を通して、初めて師イエスが言っておられた、あの事、この事が本当にわかるようになった。そして、そういう経験をするものがだんだん増えていった。そういう者の数が十分になってイエス様は、本当に天に戻られた。この弟子達は、十分これからやっていける。 弟子達は、師イエスとの交わりをとおして、本当に神様にふれるようになったのです。
   
10. 私が好きな、ヘンリ・ナウエンという人が、lonelinessという言葉と、solitudeという言葉を区別して使っているのに、ああそうだなあと深くうなづく思いを持ったことがありました。ナウエンの細かな説明は皆忘れてしまっているのですが、この二つの言葉を対比させることによって、何かとても大切な、信仰的事柄を教えられたように思った記憶があります。
   
11. いろんな人がいろんな訳し方をしてますが、『孤独』と『孤立』という風に区別しても良いかなと思っています。一人でいることに、いつも寂しさ、足りなさ、心細さしか感じられない在り方を、loneliness。一人でいても、ちゃんと立っていられる在り方を、solitudeといっています。
   
12. 今日の特祷の、「我らをみなしごにせず」という言葉は、イエス様が、私たちが神さまの前にあってlonelinessの人から、solitudeの人に成長していくことを望まれるという意味あいがあるような気がしてなりません。
   
13. ナウエンは、lonelinessという言葉と、solitudeという言葉をこんな風に説明しています。『lonelinessは痛ましい。solitude は平和に満ちている。lonelinessにある人は、他の人になりふりかまわず、しがみついていく。solitudeにある人は、他の人びとがそれぞれユニークであることに敬意をはらう。そして、solitudeにある人が、人が人と共に生きる共同体を作ることが出来るのである』と言っています。
   
14. そして、私たちは、それが、完全にできるかどうかは、別の問題としてlonelinessの人から、solitudeの人へと信仰的に生涯かけて、成長し続けていかなければならないのであると言っています。
   
15. 弟子達を、もう一度「みなしご」のようにして、天に昇られたイエス様は、きっと私たちにナウエンが語るような、信仰的成長、成熟を望まれたのであると思うのです。