2008年3月30日  復活節第2主日 (A年)

 

司祭 マーク シュタール

ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。使徒言行録2章30節から
あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。ペトロの手紙一 1章8節から
イエスは言われた『私を見たから信じたのか。見ないのに信じるものは、幸いである』。ヨハネによる福音書20章29節から

 今日の御言葉では、過去が未来へと飛躍する。キリストの受難の恐怖が過ぎ去り、弟子たちは既に聞いてはいたものの、きちんと理解できていなかったイエスの復活を漸く理解し始めていた。使徒言行録の箇所は、世界で初めて記録されたキリスト教の説教である。ペテロも、やっとイエスの復活を理解し、自分の見たことを口に出すことができるようになった。神の救いは神の子イエスから来る、イエスは不当に殺され死人の中からよみがえったと言えるようになった。この復活は、突然の奇跡でもなければ、一過性の出来事でもなかった。むしろ、このことはダビデ王によって預言されていたことで、神様の確かなご計画の中にあった。そして、いく代にも及び、信じる者に示される出来事であった。この具体的で詳しい説明は、美しいが抽象的な詩篇111編と対照的である。
 今日の使徒言行録の著者とされる人がこの最初のキリスト教の説教をした人である。福音書全般から分かるとおり、ペトロの理解不足と状況をかく乱する能力にイエスは時にいらだちを覚えた。従って、ペトロが6−7節で、「いろいろな試練」と書いたのは、実は自らが経験したことであった。最もペトロが痛みを覚えたのはイエスを裏切った夜のことである。かつては最も模範的な弟子だったのに、イエスを3度裏切ったとき、ペトロの心は打ち砕かれた。あの最初の受苦日がペトロにとってどれ程暗く、苦悩に満ちたものだったかは想像を超えている。罪の意識と自己嫌悪も相当であったろうが、イエスの凄惨な十字架の死に接することは耐えがたかったに違いない。最も厳しい試練とは、自らの心と魂から来るものである。イエスの復活後もペトロの心は暗かった。しかし、自分が許され、主の御心に叶って自分が生まれ変わったと知りようやく心の闇が晴れた。そうして初めて、ペトロは自分のなすべき使命を遂行することが出来たのである。
 福音書では、イエスが復活後に弟子たちにどのようなことを教えたかを具体的に書いてはいない。分かっていることは、弟子たちがイエスと共に過ごした3年間、彼らはずっとイエスを正しく理解していなかったということだ。拡大解釈すれば、イエスが昇天する頃には、ある程度霊的な真理を理解していたらしいことが、使徒言行録から分かる。そして、トマスについての記述は、我々すべてにとってとても重要である。我々不完全な人間は、証拠が必要である(聖書、教会、目撃証言)。私たちも生ける神を目にする必要がある。私たちがまだキリストを知らない隣人に福音を述べ伝えようとするなら、我々も、神の証拠と存在が必要である。自分が得ていないものを人と分かち合うことはできない。
 今日の御言葉は、神様の御力が過去から現在へと途切れることのなく聖霊の力によってひとつとなり、過去と未来が融合していることを示している。