司祭 クレメント 大岡 創
私たちの誰もが人生の歩みの中で人の死を経験します。私自身もこれまでに和歌山において20名あまりの人々を見送ってきました。「いつしか天国に行けば、また会えるのだから・・」とはいうものの「辛い」ことには変わりありません。
イエスさまも親しい人の死がどれ程痛ましく、悲しいものであるかを知っておられました。また、その死がその人との永遠の別れでないことも示して下さいました。
ラザロの死を嘆き悲しむマルタとマリアの所にイエスさまは来られます。そしてイエスさまの到着の遅れをマルタはひたすらに嘆きます。イエスさまが言われた「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という言葉は「イエスさまを信じることが死んだものに命をもたらすこと」ということを「信じることができるのか、できないのか」とマルタの気持ちに迫ってきます。
マルタは「わたしは信じています」とはいうものの、イエスさまの思いはすぐには伝わりませんでした。聖書にはそのあたりのもどかしさが詳しく描かれています。
「彼女が泣き、一緒にいたユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して・・」とあります。このままだと「空しさ」と「悔しさ」しか残らないではないか、それでいいのか!とイエスさまも焦りを覚えられたようです。あるいは自分自身にも言い聞かせておられるかのようです。しかしまわりのユダヤ人たちは「盲人の目を開けたこの人もラザロを死なないようにはできなかったのか」とイエスさまの無力さを嘆き、マルタさえも死後4日も経ち、すでに死臭が漂っていることをつぶやくのです。そこでイエスさまはラザロの死を悼む者への「慰め」から「諦め」へと変わってしまう状況のなか、絶望と悲しみのままで死は終わらないことを思い起こさせようと、マルタに「もし、信じるなら神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われたのでした。
イエスさまは、「人を深い悲しみに追いやる死のちから」に対して憤られ、涙されたのです。死の力はそれほどまでに親しい者との関係を過去のものとして、とんでもない所への葬り去ってしまうかのように思わせてしまう力と言えるかもしれません。
イエスさまは墓の石を取りのけるように言われました。「ラザロよ、出てきなさい」と墓の中に閉じ込められていたものに再び光があたるようにと導かれ、招きいれられたのです。そのことを通して、わたしたちとの交わりは決して死によって終わるものではないことを明らかにしてくださいました。神さまの栄光が現されるところには、死によって交わりが断ち切られてしまうことはないのだと。それはイエスさまご自身の命をささげられるという形で示されました。
わたしたちに与えられたこの世の命には限りがありますが、わたしたちの人生の歩みはそれで何もかも空しくなって終わってしまうのではありません。肉体の死を越えて永遠の命へと導かれるように、また、神さまとさらに親しい交わりに与かることができるようにと、主によって招かれていることを覚えたいと思います。