司祭 マタイ 西川征士
「出て行くこと」と「帰ること」
大斎節は主の御受難を思い起こしながら、自らの信仰的成長のために、主の試みを受け、克己訓練の時として過ごす期節であることは言うまでもありません。豊かな実りがあるように心からお祈り致します。
さて、本日の旧約テキスト(創世記12:1〜8)はアブラムの召命と移住の記事を読みました。
アブラムは父の遺産を受け継ぎ、ハランというところで妻サライ、甥ロトと平穏に暮らしておりました。とは言え、アブラムは既に75才だったと書かれています。そのアブラムが、神様から、「生まれ故郷」(12:1)を離れて、移住するように命じられたのです。アブラムは神様の命令に従い、行き先も分からないまま旅立って行くという大変有名なお話です。
牧師は、よく転勤で安住の場所から出て行かねばなりません。私はもう6回経験しましたので、少しは慣れましたが、もう齢ですから次の移住(?)は大変だろうなと思います。移住のこととは別に、私たちはいろんな居心地の良いところから離れて、様々な境遇に出て行かないと良い成長が得られません。環境的なことだけでなく、自分自身の中で、居心地の良い自分に安住して生きているところもありますから、そういう自分から思い切って出て行くこともしなければなりません。
私の母は今92才で、もう長く病院で過ごしています。いつも同じ部屋で、食事や風呂などの時だけ介護の方々のお世話で移動します。老人性認知症も大分進み、私たち息子のこともよく分からない状態です。何だか「身近な人」ぐらいは分かるようですが、「息子」とか「母親」とかの「関係」は殆ど分かりません。自分の住んでいたところも分からないし、朝食か昼食か、夏なのか冬なのかなど、みな分かりません。それでも何も文句も言わず、面会に行くと同じ話を繰り返しながらも、とても喜んでくれます。
驚くべき事ではありますが、最近このような母に、私は私の病気(ガン)のことを話して、それを聞いて欲しいと思っている気持ちがあることに気づきました。母はもう私たちとどこかかけ離れた世界に半分行ってしまっているのが分かっているのに、その母に少しでも慰めてもらいたいとでも思っているのでしょうか。要は、この齢になっても、まだ、私はすっかり母親離れができていないのだということに気づかされたのです。
人はそれぞれ親離れや子離れの他、様々なものから別れ、色々な世界から巣立ちして成長していきます。そして居心地の良い自分からも「出て行くこと」をしないと、十分な自立した人間になれません。
今日の福音書(ヨハネによる福音書3:1〜17)のニコデモの物語は、アブラムのお話とは逆に、居心地の良い自分から「出て行く」ことができなかった人のお話だと思います。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)と主イエスはニコデモに言われました。新しい自分への旅立ち、神様との新たな世界への旅立ち=「出て行くこと」への促しです。
一方、アブラムの旅立ち、安住の地、安住の自己からの旅立ち=「出て行くこと」は、神への従順という内容のものでした。即ち、より神に従う生活へと踏み込んでいくものでした。神に従うことは「主に帰る」ということでもあります。ニコデモは出て行くことができずに、主に「帰ること」(主に従うこと)もできませんでした。
旧約預言者達の一つの共通のメッセージは「主に帰れ」という叫びでした。
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。」(ホセア6:1)
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。」(ヨエル2:12)
新約の有名な「放蕩息子」の譬えも、悔い改めた人が父なる神に帰って行く話であります。ペトロらが家族も船も捨てて主イエスに従ったお話も主に帰る人のお話です。
神様の命令に忠実に従うこと(主に帰ること)は大変しんどいことではあります。それは安住の地を離れて「出て行く」ようなものだからです。
未だに老母に頼ろうとする自分から「出て行くこと」と、その分、少しでも主にすっかりお委ねする心、主に「帰ること」が、今の私にまだ足りないことを痛感しています。
このような「出て行くこと」と「帰ること」を、主の十字架と共にお捧げしようとする思いと試みが、大斎節の訓練の意味なのではないでしょうか。