司祭 バルナバ 小林 聡
救い主を待つ季節 〜すべてを新しくされる平和の王が来られる〜
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。【イザヤ書11:1−10】
クリスマスを迎える季節の第二週目。この日に選ばれている旧約聖書はイザヤ書11章1節から10節です。この節には「平和の王」という表題が付けられています。これは聖書本文ではありませんが、この箇所のことをよくあらわしています。
平和の王。それは人々が救い主として待ち望んだ方のイメージなのです。その方は次のような方だといいます。
3節b「目に見えるところによって裁きを行なわず、耳にするところによって弁護することはない」。
この方は
5節「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」。
この平和の王がもたらす世界が次に描かれています。
6節「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」。
私の知る現実の世界では、目に見えるものが真実であり、耳にした事を根拠に物事を判断いたします。また狼は決して子羊と共に暮らすことはなく、弱肉強食の中で自然淘汰されていくのが世の常と多くの人が感じています。平和の王と題されているこのイザヤ書の言葉は、世の常識からはずれているように見えますが、一体何を語っているのでしょうか。
今日のイザヤ書の言葉は明らかに、新しい創造を描いています。新しい救い主の姿、そして新しい平和な世界を。狼と子羊はもともと共存出来ないように造られているとすれば、平和の王がもたらす世界は、新しく創造された世界ではないでしょうか。そうでなければ、狼と子羊が共存など出来ないからです。ここで注目したいことは、新しい平和の王の上に、2節a「主の霊がとどまる」と書かれていることです。平和の王の源泉が3節a「主を畏れ敬う霊に満たされる」ことから始まるというのです。そして、神の被造物もまた同じように、9節b「大地は主を知る知識で満たされる」というのです。この状態こそが平和の源泉だと、イザヤ書は語ります。
それはつまり、主を畏れ敬う霊に満たされない限り、平和は実現しませんということなのです。それは常識を覆す、新しい創造だとイザヤ書は告げています。
クリスマス、これは神さまの霊の招きです。神さまが、自分のイメージの中でしか生きられなくなっている私たちを招かれ、神様によって私たちが新しくされる出来事なのです。それも驚くべき仕方で。クリスマスは、私たちが驚き、変えられ、新しく創造されるという平和への招きなのです。
イザヤ書に描かれている、平和の王と平和な世界をじっくりと眺めてみましょう。そこには主をお迎えする者の新しいビジョンが描かれています。神さまの霊によってまったく新しくされたものの姿が描かれているのです。それは驚きというよりほかありません。そこから私たちはクリスマスを迎える姿勢を見つめなおしたいと思うのです。自分のイメージ、自分の思い描く救い主の姿ではなく、神の霊に満たされることによってもたらされる、驚きと、新しく創造される私たちの姿がそこにあるということを。さらに言えば、驚くこともなく、新しくされることもないクリスマス体験は、霊に満たされることのない王や被造物と同じだと言うことです。そこには神さまからもたらされる平和ではなく、自分の思い描く平和しかありません。見たことでしか判断できず、聞いたことでしか裁けない、創造性が欠けた世界となってしまいます。
私たちはこう祈りたいと思います。神さまの霊が私たちを満たし、来るべき救い主のもとへと導いてくださいますように。そしてすべてのものを新しく創造される主を待ち望ませてください、と。