司祭 パウロ 北山和民
「だから目を醒ましていなさい。…このことをわきまえていなさい….目を醒まして….。人の子は思いがけないときに来るからである」 マタイ24章より
この聖書の言葉は現代のわたし達にどんな意味を持つのでしょうか?
毎年のクリスマス、正月は、世間の大人たちにとって休日の一つとなってしまい「心して待望」することなど現代では宗教の押し付けでしかないようです。
しかし教会がこの世に主なるイエス様のご臨在、まことの命を証するものなら、このアドベントからクリスマスへの季節、わたしたちはしっかり襟を正して礼拝し、「山の上にある町(マタイ5:14)」であらねばなりません。
このごろこの国では指導的な立場にある人が頭を下げたり、逮捕されたりする「組織の不始末」がニュースになっています。一般では「コンプライアンス(法遵守)の欠如だ」といわれます。 もし教会が「今がどんなときであるか知っている(ローマ13:11)」なら、「賞味期限の改ざんなんて世俗の事で教会は関係ない」とは言えません。社会はいわば「決算という名の神」その厳粛さを軽んじたのだとわたしは言いたいです。 会計や経営の経験ある人ならお分かりだと思いますし、決算を神の裁きと喩えるのは的外れではないと思います。
しかし一般世間では(社長の解任・逮捕という会社を震え上がらせる)「神の裁き」は「やりなおし」を同時にもたらすという視点が欠落し、時として正義感を満足させるだけの不毛なものになります。
教会がこの世に発信しなければならない大切なことは、不完全なわたし達であるにもかかわらず、常に新しい心へ、平和の道へと修正してくださる力が確かにあるという信頼です。 そしてその信頼への力はわたし達の思いや祈りさえ超えてイエス・キリストにおいて先取りされていて、その到来はまさに「待つ」他に道はないのです。待ち切れず裁判所の代わりをするのではなく、月並みと見られる「和解の祭り(聖餐式)」を続けることが教会の証となるのです。冒頭の聖書からこの忍耐を聞きたいと思います。 世のものさしでは不可能と思われるような平和を実現するのはこの忍耐ではないでしょうか。
「生きている人と死んだ人とをさばくため、栄光のうちにふたたび来られます(ニケア信経)」を告白し続けましょう。