執事 ヨブ 加納嘉人
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカによる福音書23章39−43節)
二人の犯罪人がイエス様とともに十字架にかけられています。一人はイエス様をののしり、もう一人はそれをたしなめ、イエス様を救い主とし、祈っています。二人は、なんと対照的なことでしょうか。
最近テレビを見ていて気になることがあります。それは、多くの番組が、タレントのリアクション(反応)によって視聴者を楽しませようとしているようですが、そのリアクションを引き出すために、他人を馬鹿にしたり、欠点をあげつらったり、危険なことをさせたり、痛めつけたり、ののしったり、ということが見受けられることです。そうすることで、小さな優越感や安心感・刺激が得られるひとがいるのかもしれません。わたし自身の中にそれらのテレビを楽しんで見ている部分があることに気づかされます。さて、本日のみ言葉に登場する、イエス様をののしった犯罪人は、十字架にかけられ、死に直面しているという極限状態の中においてさえ、人をののしっては小さな加虐感・優越感を得ようとしているようです。しかし、まもなく死を迎える人間にとってそのことがどれほどの救いとなるでしょうか。
一方、もう一人の犯罪人は、死を目前にして大きな救いを得ました。「はっきり言っておくが(アーメン)、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」イエス様ご自身が救いを約束し、宣言されます。最初の人間が追放されて以来失っていた楽園を「今日」回復されるのです。来るべきとき、「あなたの御国においでになるとき」ではなく、「今日」実現するのであります。罪をおかし、十字架につけられるに至る人生を送ってきたこの犯罪人が、なぜ、このような喜ばしい知らせを聞くことができたのでしょうか。十字架上で血を流されるイエス様を見つめて、神をおそれ、悔い改め、イエス様に罪のないことを認めて、イエス様を王として、救い主として受け入れ、そのことをもう一人の犯罪人に証しし、イエス様だけを望みとして、イエス様に憐れみを祈ったからではないでしょうか。しかし、聖書には何も書かれてはいませんが、もしかすると、この犯罪人が喜ばしい救いの約束・宣言を聞けたのは、もうひとりがイエス様をののしったからかもしれません。また、この救いの宣言を、イエス様をののしった人間も同時に聞いたにちがいありません。この人もきっと、十字架のイエス様をあらためて見つめ、自分も救いを得たいと思ったのではないでしょうか。この人は、イエス様のことを本当には知らなかったからこそ、十字架のイエス様の中に、無力さだけしか見えなかったのではないでしょうか。神様は、十字架を通して、救いのみ言葉が届くようにと、導きをお与えくださっていることがわかってまいります。十字架のイエスにこそ、限りない愛が示されています。十字架のイエスにこそ、神にのみゆだねる信仰が示されています。十字架には、人を救いに導く力があふれているのであります。
教会の暦では、来週から新しい1年が始まります。今週は1年の締めくくりの週であります。1年の最後にあって、イエス様の十字架を仰ぎ、そこに立って、イエス様の、喜ばしい救いのみ言葉を、今一度あらためて、ご一緒に聞きたいと思います。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
主に感謝。