2007年11月18日  聖霊降臨後第25主日 (C年)


司祭 サムエル 門脇光禅

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」【創世記12章4節】

 教会の暦は降臨節(アドベント)から新しい年なのでもうすぐかと思うと何か気ぜわしいですね。北陸地方は毎年この季節になると雨やアラレ、雹の降る暗い天気が続きます。数年前、頚椎の椎間板ヘルニアで二ヶ月ほど入院しました。以来、このような天気は少しにがてです。というのは、いつもは忘れている痛みをときどき思い出すからです。本当にそのときの左肩の痛みは半端なものではありませんでした。
 そして、激痛に苦しむ中、聖書のみ言葉に慰め励まされたときのことを忘れません。私は幼いころより体が強いほうではありませんでした。お医者さまに何度も助けて戴いた体です。「痛い」「苦しい」「しんどい」「だるい」「つらい」色んな表現しても、本人以外は病気の苦しみを理解してくれません。
 頚椎のヘルニアは手術以外の治療は安静と牽引でした。一日中首と腰を固定されて天井ばかり見て過ごし、延々と続く痛みの中で何度神さまへの信仰がゆらぎそうになったかわかりません。家族に対しても感謝の念より、癇癪をおこして無理を言ってしまいました。
 病院の夜は、想像より長くて不安なものです。大抵病室は午後9時には消灯、その後病棟は静寂に包まれます。時々ナースコールが聞こえます。当直の看護師さんが静かにステ−ションに帰るときは安心ですが、慌しくナースや医師たちが出入りを始めると不安感はより募ってきます。
 夕方、阪神大震災の被災した経験を話していた隣のベッドの方が突然夜半に様態が悪化して亡くなりました。ポツンと私独りがさびしい朝を迎えた経験があります。
 病気の辛さは病気そのものだけでなく付随してくる色々な問題にもあるようです。たとえば、病気に対する差別偏見、経済的困窮、社会復帰への不安、人間関係の諸問題、家族に或いは職場に迷惑をかけたという罪悪感などなどです。
 聖書を道徳訓のように読んでいた自分がありました。内容にただ「ふんふん、なるほどありがたいねえ」と感心していたのです。
 ある日、創世神話の「神はいわれた、『光あれ』すると光があった」を読んだときこれでは格言にもならないと思ったのです。でも、それは自分が神さまにすがるような、神さましか頼ることができない気持ちで読んだときすごい内容だと気づきました。というのは「存在しないものが『光あれ』で在るわけです」病院の長い夜に耐えているものにはどんなに励ましになったことだったでしょうか。いまさらながらのことなのですが、「この世は神さまの言葉によって出来ている」と知ったわけなのです。
 ユダヤ民族の父祖アブラハム、おそらくは平穏で裕福な暮らしをしていたでしょう。
 ところがあるとき神さまの言葉をはっきり聴いてしまったのです。
 「はっきり」「しっかり」と聴いたのです。「うっかり」でなくてです。
 そして、「自分には無理です」と弁解もせず、「自分に語られたのだと」受け止めたのです。「アブラハムは神の言葉に従って旅だった」創世記12章4節の短い記述ではありますが彼の「神さまが自分に語られた」という確信と信仰を見て取れると思うのです。
 聖書の自分への語りかけをしっかり受け止める姿勢を忘れないように生きたいものです。