司祭 セオドラ 池本則子
「何より大切なことは心豊かに過ごすこと」
今、私が司牧する教会の婦人会の例会では「世界がもし100人の村だったら」を読んでいます。統計資料は少し古くなりましたが、それでもいかに世界が不平等であるかがわかります。様々な分野で格差が広がっているこの社会。例会の度にため息が出るばかりです。10月28日の朝日新聞に家電の記事が載っていましたが、それによると90年時点で日本の1家の家電平均台数は79台、しかも省エネ対策として、たとえば冷蔵庫のCO2削減のためには4年ごとの省エネ型への買い替えが最適だそうです。科学、文明の発達は人間に豊かな生活をもたらすでしょうが、そのたびに新たな問題が発生し、それに対する対策が叫ばれる。そして無駄を出し、お金をかける。お金を持っている国・人と、お金の無い国・人との間でさらに格差が広がっていく。何も無い時代の方がよかったのではないか、などと思ってしまいます。しかし考えてみると、格差や不平等は今に始まったことではなく、歴史の初めからありました。今でこそ、家系や身分、性別などによる差別は是正されてはきていますけれども(まだまだ世界全体をみると平等ではありません)、国や個人の生活水準はあまりにも差がありすぎます。
ところで、金持ちか貧乏か、という基準はどこにあるでしょうか。もちろん誰が見ても明らかにわかることもありますが、お金をいっぱい持っていても足りないと思っているかもしれないし、お金がなくても幸せに暮らしている人はいるでしょう。家族構成や環境にもよります。人それぞれで感じ方が違います。つまり、心の持ち方が重要になってくるのでしょう。
徴税人の頭ザアカイは、金持ちでした。しかし、いくら金持ちでも罪人として差別されていたザアカイの心は満たされてはいなかったでしょう。心が満たされない分、それを埋めるために規定以上の税金を取り立てては私腹を肥やしていたのかもしれません。そんな時、イエス様が通ることを聞き、罪人と食事をともにするイエス様を見れば少しは癒されると思ったのでしょうか。背が低かったため、木に登りました。すると木の上から見ていたザアカイにイエス様は「ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられたのです。その時、ザアカイの心に変化が現れました。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」。ザアカイの心は豊かになりました。自分のお金を人のために使う心が生まれたのです。イエス様は言われました、「今日、救いがこの家を訪れた」と。なぜ、ザアカイ個人にではなく、この家に救いが訪れた、と言われたのでしょうか。それはザアカイを通してザアカイと関係を持つ人にも救いが訪れた、ということなのではないかと思います。
自分の心が豊かになれば、自分のことだけでなく他者に対しても目が向き、優しくなれるのかもしれません。心豊かな人が増えれば、格差・不平等社会も解消されていくのではないでしょうか。イエス様はすべての人がどんな状況にあろうとも心豊かに過ごすことができるようにと、そして思いやりにあふれた豊かな社会になるようにと望んでおられます。そのためにイエス様はいつも私たちと共にいて、私たちの心を豊かにしてくださっているのです。