2007年9月9日  聖霊降臨後第15主日 (C年)

 

司祭 ダニエル 大塚 勝

 イエス様はエルサレムへの旅を続けられます。ルカ9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とありますように、この旅は十字架へと上る旅です。そのイエス様の後を、群衆が追いかけてきました。その群衆に向かってイエス様は、非常にきびしい言葉を投げかけられます。・・・家族も、更には自分の命をも「憎まないなら」、そして「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」、さらに「自分の持ち物を一切捨てなければ」、わたしの弟子ではありえない。・・・と言われます。
 このみ言葉は、“あなたは、どのようにわたしに倣い、どのように生きようとしているのか”と私たちに迫ってきます。日常生活において、私たちはその一部始終を計算して生活しているわけではありません。いつ何時、人生の歩みの中でどのような出来事に遭遇するかわかりません。私たちは、それぞれが、イエス様に従う者として、どれだけ正しく生きられるか、と自分自身に問うた時、誰しも不安に陥らざるを得ないと思います。
 イエス様の、このみ言葉は、その真意を正しく受け取らなければなりません。中途半端な気持ちでイエス様に従うのではなく、真実な祈りと願いをもって、ありのままの自分をすべて主に捧げて従えと言うことであります。
 信仰の歩みは、一時の気まぐれではありません。私たちの人生の、生涯の喜びです。砂上に楼閣を建てるのではなく、それ相当の覚悟を持って、岩の上に堅く土台を据えて、歩むことが求められています。しかし、それは私たちが「何かをしなければならない」と気負いではなく、私たちの全て(ありのまま)を捧げることが求められているのです。全てを捧げるというのは、自分の持っている一切を捨てることに通じます。今までの自分の生き方、あり方、人との関わりなど全てを腰を据えて見直すことに通じます。そして、そうであるなら、そこでは神様との新しい関係が築かれ、私たちは恵みに満ちた人生を過ごすことが出来るのではないかと思います。もし、私たちが何らかの状況の中で、不安に駆られ、動揺することがあった時、いつもイエス様は、大丈夫だ、わたしが一緒にいると支えてくださるのであります。全てを捧げてイエス様に従うことは、そういう豊かな恵みの中に全てをゆだねることでもあるのです。