2007年8月26日  聖霊降臨後第13主日 (C年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカによる福音書13章22−24節)

 今年も、8月6日広島原爆の日、8月9日長崎原爆の日、8月15日終戦記念日を迎え、教会でも世界の平和を覚えて祈ります。今でも、政治家の中には、世界平和のためだとか、正義のため、秩序回復のためと称して戦争を容認しようとする人たちがいます。世論もその方向に流されていく傾向があります。でも、どんなにかっこいい理由をつけても、戦争が始まったら人殺しが始まり、お互いに殺しあわなくてはならなくなります。それが戦争です。
 キング牧師は「人を憎む心は、また人を憎む心を生み出すだけです。人を憎む心には、神様の愛の力が必要です」と、どんなに人々から脅かされたり、暴力を受けても、決して暴力によって解決をしようとはしませんでした。憎しみはまた新たな憎しみを生み出し、暴力はまた新たな暴力を生み出す。戦争はまた新たな戦争を生み出すでしょう。暴力では本当の解決は得られません。しかし主はこのことも示してくださいました。真実な愛はまた新たな愛を生み出していきます。信頼はまた新たな信頼を生み出していきます。憎しみや暴力の負の連鎖ではなく愛と信頼の連鎖こそが本当の平和をもたらしてくれることを教えてくださっていますし、その愛の命に生かされるために信仰による神様との繋がりが不可欠であると言っておられます。
 ルカによる福音書の13章22節以下で、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」質問した人に対して、主イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われました。この戸口の前に立つ人たちは誰かと言いますと、旧約の預言者や主イエスの御言葉・招きを受けながら、しかし、それに対して応えようとせず、悔い改めることができずに自分中心の生活をし続けている人たちということが言えるでしょう。そういう人たちにとって、主が示された救いへの道は狭い戸口とならざるを得ません。
 しかしこれは当時の人だけのことではないと思います。歴史における私たち人間の姿でもあるのです。今も、平和な世界、平和な社会を切望しながら戦争や憎しみ合いが絶えません。この現実の姿は、まさに狭い戸口から入ることができないでいる人たちの姿ではないでしょうか。「剣を取るものは皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)、この主の御言葉を真剣に受け止めることができない人たちです。憎しみはまた新たな憎しみを生み出すことを頭では分かっていても、キング牧師のように、その道に立ち続けることができない人たちです。
 主イエスが「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われる時、それは人間の努力だけでそうしなさいと言われるのではありません。もし人間の力だけでということであれば、それはまことに空しいことです。そのことをちゃんと主は見抜いておられます。そうではなく主と共にです。信仰の創始者であり、また完成者であるイエス・キリストを見つめながら共に歩むことなんです。そして、この信仰を通して、神様の愛の命に、平和の命に生かされることによって、私たちは狭い戸口から入ることができるんです。
 すべての人が狭い戸口を見出し、そこから入って戦争や憎しみが絶えないこの現実の世界にまことの平和が訪れるようにと、神様は教会をお造りになりその交わりを導いてくださいます。私たちが礼拝を守り、御言葉に聞き、そして宣教するということには、こうした大きな目的があります。私たちの子ども、孫、さらにその先の子孫にも、決して、戦争を体験させたくない。愛と信頼に満ちた平和な世界を引き継いでいきたい。この切なる願いと祈りをもって、狭い戸口から入れるように主と共に歩みましょう。