司祭 バルトロマイ 三浦恒久
ただ神の懐に飛び込む
イエスは弟子たちに、次のようなたとえを語られました(ルカによる福音書第11章5〜8節)。
あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。
「友よ、パン三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」
すると、その人は家の中から答えるにちがいない。
「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」
しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
このたとえから、わたしはこう思いました。
旅行中の友達のため、わたしはここまで努力するだろうか。おそらくしないだろう。ましてや、このような非常識なことを。「親しき仲にも礼儀あり」ということわざがあるように、真夜中にものを借りに行くなどもってのほか。相手にとって、いい迷惑だ。失礼だ。礼儀知らずだ。わたしだったら遠慮して、このような無作法なことはしないだろう。確かに、しつように頼めばうるさがって貸してくれるかもしれない。しかし友情はそれでおしまい。わたしは友情を壊したくない。
わたしたちは社会生活の中で、相手と接する時、絶えず気を使っています。「迷惑にならないだろうか」「礼儀に反していないだろうか」
「非常識だと言われないだろうか」「友情にひびが入らないだろうか」などと。
しかし、冒頭のイエスのたとえは、神と人間との関係について語っているのです。イエスは「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」と言っておられます。神の前では、遠慮は要らないのです。無作法だなどと思う必要はありません。ただ神の懐に飛び込んで行きさえすればいいのです。