2007年7月1日  聖霊降臨後第5主日 (C年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

T弟子であることの誘惑
 牧師をしていると、ひとの痛みや憎しみに耳を傾け受けとめることが多いが、かつてこんなことがあった。ある人が、過去にひどい暴力をうけた―。そして、詳しく話しを聞くにつれて、どんどん加害者の卑劣さが見えてくる。すると次第にこちらにも憎しみがわき上がってきて、暴力を振るった相手をすぐにでも見つけ出して、刺してやりたい、そんな思いに強く駆られ、囚われた。それは、ひとつの誘惑なのだった。自分の力で一挙に解決したい、そういう誘惑である。
 やはり「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」はいい。8時45分頃になると、印篭を差し出して、あるいは刀を振り回して、悪党どもを懲らしめる―。こんなにいっぺんに解決ができたらどんなにいいか…と思う。
今日の福音書(ルカ9:51−62)の前半部分は聖書には、「サマリアで歓迎されない」という表題がつけられているが、私は「弟子であることの誘惑」とでもつけられるのではないかと思う。何百年という歴史的な経緯があって、ユダヤ人とサマリア人とは仲が悪くお互いに恨みを持っているが、そのサマリア人に拒否された、ということで腹を立て、弟子たちは暴力的な提案をしている。彼らの念頭にあったのは、いにしえの預言者エリヤの姿であった。
 エリヤは、神に背く王の部下たちを天からの火で焼き尽くしている。そんなエリヤの姿を弟子たちはイエスの中に見ていたわけで、当然エリヤのその場面を思い出していたに違いない。弟子たちにとってエリヤは「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のようなものだったのであろう。さらには、以前イエスから悪霊を追い払って病気を癒す力を授けられていたことで、なおさら彼らは「天狗」になっていたのではないか。そうして、自分たちが選ばれた、ということを取り違えて優越感を持ってしまったのだろう。その結果、傲慢になってしまった。そうして「主よお望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」という驚くべき提案が出てくるのである。
 このように、イエスの弟子であることの誘惑が前半では2つ描かれている。一つは自力で、しかも暴力にたよって一挙に解決しようとすること。二つ目は、選びということの勘違いである。そんな弟子たちをイエスはいましめた。実はそこに“秘密”がある。弟子であることの誘惑、それによって、かえって、弟子とはどういうものか、が明らかになっている。誘惑にかられた弟子へのイエスのいましめは、弟子とはどういうものか、を明らかにする。先ほど私は「弟子であることの誘惑」という表題をつけたが、ほんとうは、「弟子とはどういうものか」が主題なのであった。だからこそ、その主題は、イエスの身近にいる弟子たちに留まらず、12弟子というサークルの外へと押し広げられなければならなかった。そこで、イエスとその一行は、さらに道を進まなければならなかった。

U弟子であることの恵み
 57節から最後のところまでをざっと読んでいくと、容易には受け入れ難いような事が並んでいる。何と冷たい、厳しい要求なのだろう。イエスについていきたいという時に、なにしろ父親を葬りにも行かせてくれない、家族にいとまごいにすら行かせてくれない、というのだから。
 ところで、こうした箇所は、戦前・戦中の日本で、キリスト教を敵視する人たちの格好の批判の的だった。ご存じの通り、戦時体制へと入っていくなかで、日本国民は天皇の子供である、だから、親そして天皇に従順に従い忠誠を尽くさねばならない、という考え方が教育され、人々が束ねられようとしていた。だから当時の御用学者のような人々にとってこの聖句は、自分たちの推し進めようとする考え方と大きく対立するものだった。そこで彼らはキリスト教を、親不孝の宗教、日本人には合わない宗教として攻撃したのだった。
 イスラエルにも似たところがあって、当時は自民族の血筋であるということに極端に重い価値を置いていた。さらには、父親の葬儀を丁重に行なうことは当時の人々の信心の中心ですらあったようである。
 そうなると、今の私たちから見ると冷たく見えるが、現代とは比べ物にならないくらい血縁の縛り(拘束力)が強かった状況の中でこのイエスの言葉が語られたということがわかる。つまり、強い束縛からの解放。しかもそれは自分の外にある強制力というよりもむしろ、その人の心の中の束縛「〜ねばならない」という不自由さからの解放、と言えるのではないか。だから、これらのイエスの言葉は「弟子であることの恵み」とも言える。その恵みとは、一つには血縁に象徴されるような人間的な一切のしがらみからの解放であり、もう一つには弟子になるのに何の資格も家柄もいらない、何の格付けもいらない、ということである。

V弟子であるということ
 キリストの弟子であるということは確かに困難な道である。そこには常に弟子であることの誘惑がつきまとう。しかし、わたしたちが誘惑に陥ろうとするまさに、そこにこそイエスの恵みが立ち現れてくる可能性、いや必然性が存する。もしそれがなければ、私自身は自力に頼り、それでもって身を滅ぼしていたにちがいない。「弟子になる」とは、これらの一見すると厳しくみえるいましめが、恵みであることに気付くことではないか。そして「弟子である」とは、その恵みを割り引くことなく十全に受けとることだと思う。そのとき、私たちに、キリストに従う、ということが起こるのだと思う。