司祭 ヨシュア 柳原義之
「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」ルカ9:23
高校に入学してすぐに、ワンダーフォーゲル部に入部した。ボーイスカウトでの経験や友達とよくキャンプに行っていたこともあり、迷いもなく入部を決めた。その夏、3泊4日の行程で京都から小浜まで歩くことになり、荷物の分配が行なわれ、私にはテントが与えられた。現在のようなグラスファイバーのポール、撥水加工の軽いナイロン系の生地ではなく、帆布に防止加工をしたもので30kgの重さがあった。今の体型とは違って体重は54kgぐらいだが、ちょうどやり始めたウエイトリフティングの練習が先輩の目に留まったのかもしれない。
山の中に入り、1日、2日と過ぎ、朝テントをたたんでいる時にしまったと思った。それは他の部員は食料などで、日を追うごとに荷は軽くなっていくのだが、防水加工とはいえ、夜露、朝露をしっかり含んだテントはさらに重くなっていくのだ。そして山は深くなり、皆のペースにはついていかなくてならない。自信のあった体力も3日目にはほぼグロッキーとなり、さらに道を間違えたとかで結局は目的の日本海は見えず、和知の駅のほうに戻ってきてしまった。黙々と山を下るのだが、リュックの上の重さの増したテントは肩に膝に負担を強いてくる。余談だが、駅の近くに下りてきた時、私の耳を太い芋虫がくるりと巻いていた。どこでくっついたのかもわからないぐらいに疲れていた。
イエス様は「わたしについてきたいのなら、自分の十字架を背負え」と言う。十字架は死刑の道具なので、人の体重を支える事ができる太く重いもの。映画や絵画にはとても重そうな木を背負うイエス様が描写されており、横の木だけであったか、十字架の形をしていたかはさておき、まさに背負うべき十字架とはそれほどに重いもので、少なくとも家庭祭壇にあるような小さなものを持って来い、ということでないのは確かなようだ。
「自分の十字架」と聞いて、「自分の弱いところ」「自分の罪」「人に見せたくないところ」と今までは解釈してきたが、あの時のテントよりももっと重く、自分の体重を軽く支えるほどのものと思うとき、とてもではないがそのようなものを背負ってイエス様についていくことは難しく、たいへんなことだと思っている。
自分の十字架を背負うだけでも重いのに、人に傷をつけたままで、背負わなくてもいい十字架を人に背負わせたり、道端に十字架が捨ててあったりするのを見る。自分の罪や弱さを認めないまま、自分の十字架を背負わないままイエス様に従うことはできない。
その重さに耐えかね、倒れたときにこそ、イエス様が「わたしのくびきを負いなさい」と。自分のものではないものまで負わされている人のそばにはきっとイエス様が伴っていてくださるのだろう。反対に、道に捨て置いたり、軽いものだけを選んで背負う者には、最後にちゃんと相応の重さが用意されているのかもしれない。
自分で背負うべきものは、自分で背負ってイエス様に従っていきたい。