司祭 バルナバ 小林 聡
理不尽な死と神への祈り【列王記上17:17−24】
理不尽な死に見舞われる時、イスラエル社会では、自分の罪のせいだと認識した。すべての不幸は自分の罪のせいであり、罪は贖われなければ救われない。ここに一人の女性が登場する。地中海に面した町シドンのサレプタという所に住む女性で、夫に先立たれた人であった。当時この地方一体を干ばつが襲っていた。あと少しの食料で彼女も家の者も食べ物が底をつく状態であった。そんな時、神は預言者エリヤを彼女の元に遣わす。エリヤも飢えており、彼女がエリヤを養うであろうと神がエリヤに言ったからである。エリヤは彼女にこう言った。「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。そしてそのようになった。神の言葉は真実であった。しかし物語は続く。なんということか、彼女の息子が病気で死んでしまう。聖書の記述から想像するに、それは突然のことで、社会的に最も弱い立場に置かれていた夫に先立たれた人にとっては心の支えを失くしたどころか、将来自分を支えてくれる者の喪失によって社会的疎外のどん底に叩き落されるが如くであったに違いない。
彼女のエリヤへの叫びは悲痛である。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょう。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
この女性のこの言葉の前に私たちは沈黙する。何を語れるのだろうか。何故神は夫に先立たれた人の息子を奪われてしまうのだろうか。このことは彼女の罪のせいなのだろうか。エリヤは息子を抱え、階上の部屋に行き、寝台に寝かせ主に向かって二度祈った。二度目の祈りは「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」であった。
これはこの女性の祈りでもあった。
数百年後、イエスはエリヤと同じようにティルスとシドンの地方に行かれ、そこで外国人であるカナンの女が執拗にイエスにつきまとい、悪霊にとりつかれた娘を癒してくれとついてくる場面に遭遇する。イエスはこの女の信仰を立派だといい、あなたの願いどおりになるようにと言って癒された。このカナンの女の信仰は数百年前、同じくエリヤから見れば外国人の女であった夫に先立たれた人の信仰告白に通じる。この女性は息子のよみがえりに接し、エリヤにこう言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
愛する者のために祈る祈りは、理不尽な死や疎外に見舞われた人々を回復させる。神の言葉が真実なのは、神に祈る祈りが神に聞かれたからである。この2人の女性の祈りは神に聞かれた。いや聞かれたというような神の側のイニシアチブではなく、2人の女性の祈りが神の心を変え、神の行動を変えた。女性たちにイニシアチブがあった。この2人の女性たちは、不幸を自分の罪のせいにして泣き寝入りせず、神のうちに人を立ち上がらせる真実があると信じた祈りをしている。しなやかで、したたかで強い。神を信じる祈りは聞かれる。
神の言葉は真実で、神は人を立ち上がらせる方であると信じる祈りは聞かれる。祈りは、神が人を罪の束縛から解放し、立ち上がらせる神の真実をあらわす。祈りは必ず聞かれる。