主教 ステパノ 高地 敬
姿を消してくださった
ミステリー作家の東野圭吾に『秘密』という小説があります。映画にもなったようですが、原作とはかなり違っているようです。
バスの事故で母親が娘をかばって死にますが、無傷の娘の体の中で生きているのは不思議なことに母親です。娘と母親が入れ替わってしまったという、よくあるモチーフで、実際にはあり得ない、荒唐無稽な話です。ただ、父親と娘の暮らしぶりが描かれていき、外では娘を演じる母と、娘のような妻と暮らす父親の心の中の複雑な思いが明らかになるにつれて、人ごとではないような気になりました。妻であり母としての自分自身でありたいけれどもそうはできない。自分の妻なのに妻として付き合えないという真実と現実とが一致しない状態。これが、普段の私たちの生活の中で起こる「こうありたい」と願う気持ちと現実とのギャップに重なって来るからかも知れません。
この話の中では、そのまま生きていくことには夫のためにも大きな矛盾があることを母親は悟り、夫には秘密のうちに、娘として生きることを苦しみながら選択していきます。そして、時間をかけて夫との複雑な関係を調整して、娘になりきる日が来ます。夫は後日、妻のその日までの苦しみを知って「声がかれるほどに泣き出した」と、この小説は終わっています。
自分が自分であることを捨てる。これほどつらく悲しいことはありません。私たちは毎日何とかして自分を保とうと精一杯の努力をしているのですが、生活の多くの場面でこのような選択がいろいろな形で迫られているのではないでしょうか。自分のプライドをあなたは今、人のために捨てる気があるのかないのか。捨てることのつらさを思うと、それはほとんど不可能であるようです。
イエス様は死んで、三日という時間の後に新しく生きる姿を見せられます。三日間死んでいる。イエス様は受難の時ばかりではなくて、暗い闇の時間をかけて新しくなっていかれます。神さまに用意されているのは、周りとの関係も途切れるつらく苦しい時間と、周りとの新しい関係が作られる時でありました。新しさは、つらさを背景としておりました。
自分であることを捨てて、姿を消していく。イエス様が消えてしまったこと、そして消えざるを得なかったことについて、その思いを大声で泣きながら受け止める時が弟子たちにはありました。その時を通って、弟子たちにとっても新しい時が始まっていきました。
「秘密」ということをいろんな意味で捉えながらこの小説を読み終えました。妻の秘密は、夫への愛情によるものでした。その秘密を夫は大切に受け留めました。
神様の秘密。私たちへの愛による秘密。それが本当に明らかになるのは、私たちがイエス様の苦しみと新しさに支えられ促されて、自分も少なからずつらい時間を過ごし、その末に新しさを垣間見る時ではないでしょうか。