2007年2月25日  大斎節第1主日 (C年)


司祭 クレメント 大岡 創

「悪魔の試み」【ルカ4:1−13】

 悪魔の試みを受けるために荒れ野に導かれたとは、イエスさまでさえ抵抗できなかったことを表しています。またイエスさまの受けられた三つの試みはわたしたち人間が受ける「誘惑」の代表的なものであることが分かります。しかも、わたしたちを神さまから引き離そうとする力を持ち、すきがあれば直ぐに動き出します。
 「人はパンだけで生きるものではない」とはわたしたちと神さまとの関係を自覚させるのに不可欠な言葉です。わたしたち自身がモノの豊かさによって得られる幸福感や満足度に勝るものとは神さまによって養われ、生かされること以外にはない、と言い切っているようなみ言葉です。
 次に「人を支配しようとする誘惑」です。「イエスを高くひきあげ」とは神さま以上のものになれという神さまに対して挑戦する情景が描かれています。人は誰でも人よりも優位に立ちたいとか、有利にことを運びたいという思いに駆られます。そうなりたいがためにこの世的に妥協することが多いのではないでしょうか。そのうち、み言葉に耳を傾けなくても、祈らなくても、平気になっていく。いわば神さまと何の関わりもなしに日々の生活が成り立っていると考えるようになること。神さまなしでも、やっていける・・・という思いに捕らわれていくこと。これはわたしたちにとって大きな「誘惑」です。
 「神さまを試みる」こととは、いつもその人の信仰が試みられることであるとも言われます。神さまからどれほど多くの恵みを受けているかに気づこうとしない姿かもしれません。その背景には現代の風潮なのかわかりませんが「与えられていながら安心できない」といった不安感があるのだと思います。
 「・・あらゆる誘惑を終えて時が来るまでイエスを離れた」、とあるように「誘惑」というのはその後何度もやって来るかもしれないと言っています。
 わたしたちはイエスさまの十字架と復活という神さまの救いのみ業に立ってこの世の生活を送っていくことこそが、わたしたちの生き方です。その生き方をもう一度点検するためにも「大斎節」がわたしたちの信仰のトレーニングの意味で位置付けられているのだと思います。