司祭 マタイ 西川征士
〈神様のことに満腹?〉
本日の福音書の記事は、イエス様の「山上の説教」(山上の垂訓 マタイ5:1〜12)と酷似した「地上の説教」と呼ばれているものです。「山上の説教」は「幸い」が語られていますが、「地上の説教」では「幸い」と「不幸」が語られている点で異なっています。(旧約日課のエレミヤ書「呪われよ、・・・」「祝福されよ、・・・」もご参照ください。)
「今 飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」(21節)
「今 満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。」(25節)
ここで言われている「飢えている人々」「満腹している人々」とは、どういう人々のことを意味しているのでしょうか?
かつてイスラエル民族が、出エジプトの途上、何度もパンに飢え、水への渇きを経験し、大変苦しみました。しかし、ここで言われているのは、パンや水への「飢え」「満腹」のことではなさそうです。
旧約の預言者アモスの時代のイスラエルは、外見的繁栄の一方で、宗教的、道徳的堕落の状況にありました。アモスは彼らに「不幸」を次のように告げました。
「わたし(神)は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、神の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」(アモス8:11)
イスラエルの人々は、「神の言葉」に「満腹」した状態で、神様への心を失って、不信心、不道徳に至ったのでしょう。「御言葉への飢饉」が告げられています。豊かな神の御言葉に「満腹」したイスラエルの人々に、神様がお語りになることを止められると警告されているのです。それは人々への神の「見離し」に他なりません。実に厳しい警告です。
そのことで人々は主の言葉への「飢え」と「渇き」に苦しまねばなりません。何でも「腹一杯」「満腹」はろくな実をもたらしません。
今の時代に起こっている人間の悪業は全て、神に対して、主の御言葉に対して人々が「腹一杯」「満腹」になり、聖なるものに対して鈍感になり、背を向けていることから来ているように思うのは、思い過ごしでしょうか?
先日、預言者エズラ・ネヘミヤの時代に「律法」(最初の聖書=モーセ五書)公布の朗読の様子、イエスの会堂での聖書朗読の様子を説教でお話した礼拝後、ベテランの教会委員の一人が「先生、今日の説教よかった!!」と言ってくださいました。(そんなこと滅多にないことです。)
毎主日の聖餐式で、聖書朗読や説教、祈りの言葉など、教会の方々は皆どんな風に聞いてくださっているのかと、興味深く考えてしまうことになりました。礼拝で、司式者も会衆も、朗読すること、それを聞くこと、説教すること、それを聞くこと、お祈りすることが、如何にすごいことかと改めて思います。
それらは神様の「御言葉」ですから、決して「満腹」していたり「鈍感」になっていたりしてはなりません。聖書や説教や祈りの言葉に「飢え」た姿勢で対応できているかと反省させられます。同じことをいつも繰り返してやっていますから、「慣れっこ」という「満腹」が起こってきますので、難しい面があります。
又先日、私の立教勤務時代に一つのアルバムを妻が出してきました。
それはチャプレンとして担当していた女子寮の学生達から送別に頂いたものです。写真と200人の寮生一人一人からの送別の寄せ書きでできた手作りの素晴らしいアルバムです。
『ホールミーティングで毎回の先生のお祈りとお話に、心の安らぎを得ておりました。
この想い出は生涯忘れないでしょう。ありがとうございました。』
『大学生活の4年間、何かある度に、先生のお祈り、お話を聞いてきて、
いつも立教がキリスト教なんだなと実感しました。』
『先生の清らかなお祈りとお話を聞いて、素直に「アーメン」といえるようになりました。』
殆ど神様のことなどに触れたことも無い学生達ばかりでしたが、圧倒的多数の寮生が、私と神様をこれ程までに清純素直に受け止めてくれていたのでした。
「今満腹している人々は不幸である。」と言われるのでなく「今飢えている人々は幸いである」と言われるような教会でありたいと思います。