執事 アンナ 三木メイ
ある神学者が、「神学」とは何かということを講義で説明した時、こんな言葉を引用して紹介しました。ユダヤ教のラビ(先生)が言った言葉です。「神学とは、朝起きた時、神が何を心配しているのだろうかと考え、神の心配事を、神と共に心にかけることだ」とそのラビは定義したそうです。そして、この神学者(もちろんキリスト教の)は、その通りだと言って、さらに自分の神学について話を展開していきました。このような神学の考え方は、人間を含めたこの世界全体は神様が創造された世界である、ととらえる信仰的な理解の上に立っています。そういう世界観をもって私たちの現実の世界を見つめ直してみると、そこには神様が御覧になったら天地創造の時のようにこれで「良し」とは言えないようなさまざまな状況が数々あるのを認めざるをえません。貧困、差別、抑圧、暴力、戦争等々、人間の心の領域も含めて、世界はまさに混乱と破壊、不調和と不安の中にあると言えるでしょう。先述の神学者は、そういう状態を「被造物全体の破れ」と表現して、その破れをいかにして繕ったらよいか、そのことを考え、その繕いに参与すること、それが神学であると説明しました。そのうえで、世界の中で貧困に喘ぐ人々や、差別や抑圧に苦しむ人々の解放にむけてどう変革していく必要があるかを分析し模索していく神学を提唱しました。神様が被造物の破れを繕って解放のわざを実現してくださる。そう信じて繕いのために現実の問題に取り組む人々や共同体と共に神は働いてくださる・・・と。人が神の「霊」に満たされる、というのは例えばそういうことだと言えるのではないでしょうか。
今日の聖書日課のルカによる福音書第4章14節から21節をみてみましょう。この箇所はイエス様が荒野で誘惑を受けられたという物語のすぐ後に記されています。ですから、イエス様が油注がれた者すなわち神の子、メシアとして公衆の面前に現れた最初の出来事です。「イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた」とあります。そして安息日に故郷ナザレの会堂に入ってイザヤ書61章1節の貧しい者への福音の箇所を読み上げて、「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、言われます。すなわち、貧しい人、捕われている人、目の見えない人、圧迫されている人に解放を告げ知らせるために神から遣わされた者であると、自ら公けにされたのでした。このイザヤ書の最初の言葉は、「主の霊がわたしの上におられる」です。この現代社会に生きる私たち一人一人の上に、また教会の上に、主の霊がおられることを信じて、神様は何を心配しておられるだろうか、どのようにして繕いのわざに参与したらよいのか、と祈りながら歩んでいきたいと思います。