司祭 ヨブ 楠本良招
「初島だより その3 掃き清める」
木枯らしが吹くと、園庭の枯葉が庭だけでなく外まで飛んでしまう。つれあいと二人で掃除しても軽く1時間ほどかかる。早く枯れ木にならないかと思ったりする。近所の家の前までも掃くことになる。掃除の時には、この地方では近所、お互い同士お互いに挨拶交わすことすらない。不思議に思う。初島は浜風が強く、まるでいつも台風ではないかと思う位。枯れ葉をちりとりに集めるには要領が必要。実に我ながら上手になった。以前の下鴨の教会では、近所がお互いに挨拶しながら掃除していたのを思い出した。何故ここではお互いが挨拶し合ないのかと1時間の掃除に思いことしきり。ところが掃除するのをどこからか見ている近所の何人かが、毎日ご苦労さんと声を掛けてくれ、ある人はコンテナ一杯のミカンを届けてくれたことがあった。掃除するのに不満があった自分は恥ずかしい思いをした。掃除は見えないところにおい出になる神様に喜んでいただくため、掃き清める行為と思った。
今週は「顕現後第1主日・主イエス洗礼の日」。主イエスはヨルダン川のほとりで、洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授け、主イエスは祈っておられた。すると天が開けて、聖霊が鳩ように目にみえる姿でイエスの上に下ってきた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という声が天から聞こえた。と主イエスの洗礼の様子が描かれている。
洗礼は罪の赦しを受けるしるしなのだから、神の子イエスには罪があるはずがない。この箇所を読み始めたとき、なぜ、どうしてと言う疑問が生じたことがあった。しかし分からないところはそのままにして、聖書を素直に読むように努力したい。無理な聖書解釈は混乱する可能性があると思う。ピエロ・デラ・フランチェスコの「キリストの洗礼」の絵画はよく目にする。ロンドンのナショナルギャラリーに展示。いつかこの絵をみたことがあるが、絵画は聖書に疑問をはさまず、聖書そのままをテーマにしている。洗礼は罪の掃き清めと思う。
さて、私は1973年に東京教区当時の練馬聖公会で洗礼を受けた。クリスチャンネームは信仰に生きた人としてヨブの名を付けてくれた。当時小さな経済大学で聖書研究部に属していた。受洗の時には聖書研究部の先輩が多く出席された。私の受洗の時は丁度雷に撃たれたような衝撃があったことを今でも思い出している。またここ数年、私は2人の名親に偶然にお会いできたのも神さまの導きと思っている。神の恵みと導きと祝福は、私たちの思いをはるかに越えたところで起こる神の不思議さ。今朝も、散らばった落ち葉を、しんどさを覚えながら、園庭や道路をつれあいと掃き清める。