2006年12月31日  降誕後第1主日 (C年)


司祭 ヨハネ 黒田 裕

時制がぐちゃぐちゃ

 私の娘が3歳くらいのときのことです。たまに子どもの寝かせつけをするのですが、寝床で子どもの話しを聞いていると何度も吹き出しそうになります。次から次へと話題が飛ぶので、頭のなかで、展開の早い映画を見ているようです。今日行った母親とのお買い物の話しをしているかと思えば、一年以上前のお出かけの話しを始めたりします。こちらにしてみると、あっちこっちに話しが飛んで訳が分からなくなりそうなのですが、よくよく聞いていると、どうもその時々に一つのキーワードがあって、そのキーワードから次々と連想する話題に移っていっているようです。
 はじめは、「"時制"がぐちゃぐちゃやなー」と思いました。何しろ過去や現在や未来が未分離なのですから。昨日、今日、明日、という概念がないわけです。半年前や一年前のことだって今日あったことのように話したりします。このことは、はじめは、ただ面白がっていただけなのですが、でも、よくよく考えてみるとこれはなかなか凄いことだし素敵なことのようにも思えてきました。
 まず、半年以上前のことを今日のことのように話せる、というのは体験が風化していないということです。その子のなかでは、ずいぶん過去のことも今のことのように新鮮だということです。それから、過去・現在・未来がはっきりしていない、というのは、そうした概念が殆んどないということなのですが、これは見方を変えれば、たいへん自由だとも言えます。大人というのはいろいろな概念を通してものごとを見ています。そして、それによって確かに情報を大変効率的に処理できるわけですが、いっぽう概念というのは色眼鏡ともいえるわけで、あることを初めから色つきで見ているとも言えるわけです。ですから、大人がある偏りや決めつけからスタートしているとすれば、小さい子供ほどそこから自由だということになります。そう考えてみると「時制がぐちゃぐちゃ」というのは、それほど馬鹿にできない、いや、なかなかに素敵なことなのではないか、と思えてくるのです。
 ところで、ヨハネ福音書の冒頭は「初めに言があった」で始まる、ロゴス・キリスト論と呼ばれる箇所です。そして11節あたりに来て「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(12節)とあって、「あぁ、この『言』というのはイエスさまのことを指しているのだな」ということが分かってきます。そして18節の一区切りのところまで一気に読めてしまうのですが、しかし、また初めのところに目をやると、今度は深刻な混乱に陥るのです。
 というのも、そこには「初めに言があった」とあるばかりか、さらに3節に至っては「万物は言によって成った」とすらあるからです。クエスチョンマークがいくつも(???)頭のなかに出てきてしまいます。どうもここでは、天地創造のことが言われているようだ。混沌と闇のなかで神さまが「光あれ」と言うと昼と夜ができて、さらに次々と天地と生き物たちが造られる―という、あの物語。でも、待てよ。この「言」というのがイエスさまだとすると、これは成り立たないのではないか。なんで天地創造の時にイエスさまがおられるんだ???と混乱してくるのです。
 私たちの頭のなかには、イエス、というと、大体2000年ほどまえに西アジアのユダヤという小さな国にいた30歳くらいの、あの方を想像するわけです。ところが、天地創造はそれよりもはるか彼方の昔なはずです。これは大きい矛盾なわけで、それで私たちは頭を抱えてしまうのです。
 そこで先ほどの時制がぐちゃぐちゃという話しに戻りたいと思うのです。子どもの時間に対する感覚、実はこれは聖書の言葉、神の言葉、の時間感覚に近いものがあるのではないか、ということなのです。文法としての時制は、どうもインド・ヨーロッパ語族の特徴らしいのですが、新約の原典ギリシャ語は日本語以上に厳密に時制の区別があります。しかし、そこであらわされている思想としては、ある意味では過去・現在・未来が混在しています。もっときちんと言えば、過去の出来事が現在や未来のこととして語られ、現在に未来が突入してくることすらあるのです。
 さきほどヨハネ福音書の冒頭を読むと深刻な混乱に陥ると言いましたが、子どもたちの時間感覚に照らしてみると、もしかしたら私たちは大変不自由な見方をしているのかもしれません。イエスさまについても、いろいろな知識や情報があるわけですが、かえってそれらが色眼鏡となって、ものごとの実相を見えにくくしているのかもしれないのです。
 時制がぐちゃぐちゃ、それをキリスト教では、いや大人の言葉では神の永遠性という言い方をします。それを伝統的には「はじめにあり いまあり 世々に限りなくあるなり」とも表現してきました。「ぐちゃぐちゃ」というのは、いかにも乱暴な言い方に聞こえますが、神さまが永遠である、ということ、それが、かの出来事がいまの出来事でありつつ、未来の先取りであると言いうる秘密であります。
 この視点から、このヨハネ福音書の冒頭を読み返してみると、また新たな発見があるかもしれません。そして、そのときに、この「言」の、この方の、「満ちあふれる豊かさの中から、恵の上に、更に恵みを受けた」(16節)という神秘に触れることができるのではないでしょうか。