2006年12月24日  降臨節第4主日 (C年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

「神様が仰ったことだから」

 妻が妊娠して気がついたことがあります。それは病院の検診から帰ってきた夕食の時「今日ね、待っている間に偶然となりに座っている人と話したことやけど・・・」嬉しいことも心配なことも生き生きとその日に出会った人との様子を語るのです。同じ妊婦さんどうしすぐに知り合いになれるのでしょうか。こどもの高校の保護者会で、偶然同じ病院で出産したというお母さんと出合ったときなど同窓会のように話が盛り上がっていました。
 天使から受胎をつげられたマリアは、親戚のエリサベトおばさんも身ごもっていることを知りました。マリアはエリサベトの家をはるばる訪ね扉を開けました。突然の訪問。何の言葉も交わさないのにマリアの挨拶の声だけでエリサベトはすべてを察しました。ふたりの心も体も響きあうマリアのエリサベト訪問の場面です。妊婦さんどうしだからなにかを察することができたのでしょう。しかし、それだけではない更に深い共通の思いがあったのです。ひとりはまだ夫もいない若い娘、もう一人はこどもに恵まれなかった老いの領域に入った女性。二人は人間の常識ではありえないできごとをその身に孕んだ女性だったのです。からこそ、言葉を超えた共感がありえたのでしょう。それは「主がおっしゃったことは、必ず実現する」と信じた人間の確信でした。
 エリサベトの夫ザカリアは神殿に勤める祭司でした。神様の一番近くにいることのできる立場です。そして、神殿の聖所でお香を焚くという神聖な任務の最中に天使の言葉を聞いたのです。ザカリアとエリサベトは子どもに恵まれませんでした。彼らは老齢の域に入り、夫婦ではそのことに触れないようにしていたのでしょう。しかし、心の深いところではやはり神に子どもを願っていたのです。そして天使はその願いが聞き届けられたのだと告げます。激しい不安と恐れに見舞われた彼は天使の言葉をにわかには信じられませんでした。それ故、子どもが生まれるまで言葉を失ってしまったのでした。
 ここに鋭い問いがあります。神がおっしゃったことは必ず実現すると信じた者は誰か。それは祭司と言うプロの宗教者ではなく、子どもを孕むことがありえない二人の女性だったのです。彼女たちの心を結んでいるのは、ありえないことでも主が仰ったことだからこそそれを信じるという共通の確信ではないでしょうか。
わたしたちももう一度この言葉を噛み締めましょう。「主が仰ったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。