司祭 バルナバ 小林 聡
慰めの詩は導きの賛歌となる【バルク書5:1−9】
7節「すべての高い山、果てしなく続く丘は低くなれ、/谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた。それはイスラエルが神の栄光に包まれ、/安全に歩むため。」
イエス様のお誕生を待つ季節に読まれる聖書のメッセージには、道をまっすぐにするという表現が出てきます。この表現で思い浮かべるのが、昔パレスチナの紛争地を車椅子の方と移動した時、急な斜面やでこぼこ道をみんなで担いで通った時のことです。その時にみんなで協力出来たことで、困難な道を通った苦労を苦労と思わないくらいの充実感がありました。確かに道が平らな方が通りやすいのですが、一つの困難な道をみんなで通るというのも、道を平らにする共同の作業だと思ったのです。そこから聖書で言われている道をまっすぐにするというイメージを考えてみると、みんなが協力するイメージ、もっと言えば来るべき方が通りやすくするためにみんなが心を配り心と体を持ち寄るといったイメージが浮かぶのではないでしょうか。
旧約聖書続編のバルク書には、イスラエルの民が捕らわれの地、捕囚の地から解放されて帰還する時の神の慰めに満ちた詩が描かれています。帰還する民にとって、帰還の道は決して平坦な道ではなかったはずです。しかしその民を神が導くのです。それは具体的にでこぼこ道を平らにするということだったのです。帰還して行く民は、坂道やでこぼこ道に遭遇しても、神が自分たちのことを覚えていてくださったことを励みに、みんなで協力して旅を続けたのでした。この励ましや協力ということが道を平らにするという表現になったのだと思います。
クリスマスは、多くの人が知っているように、東方の三人の学者たちや夜働く羊飼いたちが星や天使に導かれて、幼子イエス様のもとにたどり着きました。その道のりもまた慰めと励ましに満ちた道のりだったのです。
今日私たちはどのような道を歩み、どこに向かっているのでしょうか。もしかしたらどこに向かい、どのように歩めばいいのかさえ分からずに迷いの内にさまよっている人が殆どなのかもしれません。ネオンや装飾のきらびやかさが行き先だとしてもそれが最終目的にはなりえないでしょう。神様は昔も今も、迷える者を慰め、互いに心を砕き合い、つながる中で、でこぼこ道を平らにし、みんなが一緒に歩める道を創造されるのです。大人になったイエス様が言った言葉を思い出します。「私は道であり、真理であり、命である」。イエス様の道を歩む人々は、慰められ、互いに協力し合い、道を平らにしていく喜びが与えられるのです。それこそ、クリスマスが語る真理ではないでしょうか。神様の導きの中で、私たち一人ひとりに一緒に生きる喜びが与えられますように。神様の導きを祈ります。
9節「神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、/喜びのうちにイスラエルを導かれる。」