司祭 ヨハネ 石塚秀司
「気をつけていなさい」【マルコによる福音書13章】
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。・・・・・・そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。」(マルコによる福音書13章14節−18節,21節−23節)
季節は確実に冬に近づきつつあります。緑一色だった山々も色づいてきました。あと一ヶ月もするとクリスマスがやってきます。秋の深まりと同時に落葉樹の葉っぱは色づき、やがて落ち葉となって地上に舞い落ちていきます。しかし、枝が幹につながっていれば、春になると再び新しい葉っぱを付け命の創造の営みが繰り返されていきます。
ヨハネによる福音書15章5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」というみ言葉があります。幹である主イエス・キリストにつながっていることによって、枝である私たちは神様の命の実を豊かに実らせることができる。だからつながっていなさいと強調されます。
では、主イエスとつながっているとは具体的にどういうことなのでしょうか。木と枝がつながっていることはすぐにイメージできますが、ぶどうの木である主イエスとその枝である私たちとがつながっているとはどういうことなのでしょうか。それは信仰に他なりません。主イエス・キリストを信じて愛することです。
人間関係においても、信じあい愛し合うところに、つながりや絆を感じます。もし夫婦や家族が同じ屋根の下に一緒に住んでいても、お互いが無関心で信頼と愛がなかったらバラバラということになります。そういう状況では、人の心は満たされません。逆に生活している場所は離れていても、愛と信頼に結ばれていれば喜びがあり、創造的な出来事へとつながっていきます。
枝は木の幹につながっていてこそ、大地に支えられ、多少の嵐が来ても吹き飛ばされず、豊かな実を結び、命の営みを続けていくことができます。それと同じように、愛と信仰をもって主イエス・キリストとつながっていることによって、振り回されずに豊かな実を結ぶ命の基盤を得ることができます。
さて、マルコによる福音書13章は「小黙示録」とも呼ばれているところですが、終わりの日の到来と、それに向けての信じる者の取るべき態度について、主イエスが述べておられるところです。思いもよらない苦難がやってくる。その時に、「見よ、ここにメシアがいる」と言ったり、不思議な業を行う偽のメシア、預言者が現れて人々を惑わすが、そうしたものを信じてはならない、惑わされてはならない。これが、信じる者の取るべき態度として、ここで私たちに与えられている大切なメッセージです。そしてその背後には、救い主イエス・キリストと心の大地である神様との信仰によるつながりがあることは言うまでもないことです。
私たちは、噂や詭弁、口車に惑わされたり、目先の出来事に心を奪われ振り回されていることがいかに多いことでしょうか。そして精神的に疲れ、意気消沈し、生きる力を失っています。そのような弱い存在です。だからこそ、信仰をもってしっかりと心の大地につながり、生かされ、支えられていることが不可欠なんです。
「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ人への手紙10章39節)