2006年10月29日  聖霊降臨後第21主日 (B年)


司祭 ペテロ 浜屋憲夫

「先生、目が見えるようになりたいのです。」

1.本日の福音書(マルコによる福音書10章46―52節)は、非常に単純な話です。話の骨子だけを取り出してみますと、バルティマイという盲人の物乞いがイエス様に、「目が見えるようにして下さい」と頼んで、見えるようにして貰ったというそれだけの話です。

2.この話の中には、深刻な思想も、鋭い逆説も、新鮮な言葉も見あたりません。ただ、たんたんとイエス様とこの人、バルティマイの出会いが描かれ、イエス様の癒しとそれにまつわるイエス様とこの人との対話が簡潔に記されているだけです。

3.目が見えない人が、見えるようになることを望むのは誠に当たり前でありますし、またイエス様はガリラヤ地方の至るところで病気直しをしておられたことは福音書が繰り返し伝えていることですから、これもまた福音書の中ではそんなに特別なことではありません。

4.このような箇所は、説教者にとっては非常に扱いにくい箇所であります。いろいろ工夫するとしても、結局は、「イエス様は、盲人バルティマイの願いをかなえて、目が見えるようにしてあげました。おしまい。」という平板な話になりがちだからです。

5.しかし、このお話をこのお話だけで単独に読まないで、マルコの福音書の流れの中に置いて眺めてみますと、なかなか興味深く、味わい深い読み方ができるのではないかと思います。

6.この主日の福音書も含めて、ここ数回のB年の主日福音書は、いろんな人がイエス様に面会して、ものを尋ねたり、お願いをしたりする場面を連続して選んでいます。そして、その人たちが、イエス様に合う時の、気持ちのありよう、また質問や願いの内容がそれぞれ非常に違っていて、それを較べてみると、何か深いことを教えられるように思うのです。

7.三週前の主日、10月1日の福音書には、ファリサイ派の人々がイエス様に近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねたことが語られました。福音記者マルコは、ファリサイ派の人々の魂胆をハッキリと、「イエスを試そうとしたのである。」と書いています。イエス様を試そうとして、イエス様に近づく人がいるのです。

8.その次の主日の福音書には、ある人がイエス様に走り寄って、ひざまずいて、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と質問した話が記されていました。この人は、本当に誠実な人のようでありますが、しかし、この人はイエス様の言葉を聞いても、気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまいました。せっかくイエス様に出会いながら、悲しみながら立ち去ってしまう人もいるのです。

9.また、その次の主日の福音書、先週の福音書には、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエス様に「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」と言った話が記されていました。その二人にイエス様は、「何をしてほしいのか」と質問されました。二人の答えは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」というものでした。そう答えた二人にイエス様は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分っていない。」と語られました。イエス様の弟子で、日々行動を共にしていながら、イエス様に何を願うべきなのかわかっていない人がいたのです。

10.盲人の物乞い、バルティマイもまた、イエス様に「何をしてほしいのか」と質問されました。そして、誠に正しく「先生、目が見えるようになりたいのです」と即座に言いました。この単純さ、真剣さこそ、バルティマイのイエス様との出会いのあり方でした。バルティマイは、本当に自分がイエス様に願うべきことを知っていたのです。

11.あのファリサイ人のこと、永遠の命について質問した人のこと、そして、ゼベダイの子ヤコブとヨハネのことを、思い浮かべて、このバルティマイの姿を見てみますと、そのイエス様に向かう心の単純さ、真剣さは、一見当たり前のようで、なかなか当たり前のことではないような気がするのです。