司祭 ミカエル 藤原健久
偉そばるな
先週イエス様は、「財産のあるも者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われた。幸いイエス様の弟子の殆どがお金に縁のない者だった。だったら神の国に直行か、と言えば、やはりそうではない。金のない者には、それなりの誘惑がある。彼らの場合、それは権力欲だった。他の者より偉くなりたい、その思いは私たち皆にある。どんな世界でもある。
どうしたら、「偉くなりたい」という思いから解放されるのだろうか。私があのとき出会ったあの老人のように、いつも謙虚で、笑顔で、しかししっかりした信仰を持つにはどうしたら良いのだろうか。それとも、あの老人すらも、そうすることによって、人より偉くなろうとしていたのだろうか。
どうしたらいいか、少し考えてみた。一つは、行動する、というもの。じっと座って考えているから、自分は偉いかどうかと思いを巡らしてしまう。忙しく動いているときには、そんなことを考えている余裕がない。特に、困っている人を助ける、とか、誰かのために奉仕すると言うときには、自分がどう思われるかよりも、この状況を改善するにはどうしたらよいかで頭が一杯になることだろう。けれども、いつも動いてばかりもいられない。人間誰しも休まなければならない。また自分を振り返る時間を持つことも、正しい行動を続けてゆく上では不可欠だ。そこで次に考えてみた。心の中で十字架を黙想すること。本日の旧約聖書の様に、傷つき、苦しむ人々のことを思い巡らすこと。特に、その苦しみがこの私の罪のために起きている人々のことを思い巡らす。そうすると、自分にも罪の意識がよみがえり、謙虚になることだろう。
少し考えてみたが、よく分からない。私たちは「偉くなりたい」という誘惑から、そんなに簡単に逃げ出せそうにない。
牧師は特に謙虚さが求められると思う。牧師になるための絶対条件は謙虚さ。最悪の牧師は偉そうな牧師である。先日、神学生と飲んでいて、思い出したことがある。自分が司祭になったときの事である。神学校を出て、数年間は聖職候補生、また執事として教会で働いていた。そして司祭となったのだが、仕事の内容はそんなに極端には変わらないのだが、内面の思いは大きく変わった。司祭になったとき、大きな責任感を感じた。これからは自分が教会の責任者。すべての責任は自分にある。この教会の信徒の魂が天国に行くのも、地獄に行くのも、すべての自分の責任だ。この思いは、教義としては間違っているかも知れない。けれども、実質は間違っていないと思う。教会に対する大きな責任感が牧師を謙虚にするのかも知れない。