2006年10月15日  聖霊降臨後第19主日 (B年)


司祭 ヨシュア 柳原義之

針の穴よりももっと小さい可能性に向けて

 「これからはわたしを信じてくれる人の中で生きていこうと思う」という内容の手紙を読んだ。
 とても悲しかった。
 イエスは十字架を背負い、不信、ねたみ、憎悪・・・そんな視線の中で死ぬために生きた。
 逃げなかった。今背負っている十字架が、人々の罪であることも知りながら、自分の罪として背負い、倒れ、鞭打たれ、つばを吐きかけられても逃げなかった。周囲の視線を恐れなかった。
 奇跡を行い、律法学者らと論争しては打ち負かし、エルサレム入城の時にはホサナ、ホサナをはやし立てられた。でも、その歓喜や好意の視線の中ではなく、信じてくれない多くの人々の中で生きた。そして十字架につかれた。
 私たちの心の中には、非難よりも賞賛されることを好み、間違っていても指摘せず、うやむやの苦笑いの中で生きてた方がいいという思いがある。自分の罪を認めず、あるいはまったく知らないふりをしながら、死ぬ時まで地獄の底にまで持っていこうとする。薄ら笑いを浮かべながら、イエスの道を「バカなやつだと」思いながら傍らを歩いている。本当は「あなたの十字架は、わたしのものです!」と叫びたいのに、「バカなやつだ」とつばを吐きかけてしまう。
 ふと、イエスの足が止まった。周囲を見ておられる。「バカなやつだ」とはき捨てた、その人を憐れみの目で見つめている。「確かにあなたの十字架だよ。だからわたしが背負っているんだ」と。
 ユダは、自分がイエスを売ってしまった、そのことに気付いた時、人知れず死んでしまった。イエスの十字架の下で懺悔すればよかったのに、他の弟子達だって誰もイエスの道に従うことができなかったのだから、あの十字架の下で懺悔すれば、イエスの血と水で洗い流せたかもしれないのに・・・。

 イエスに従う、と言いながら、どれほど多くの人が「気を落とし、悲しみながら立ち去った」ことだろう。
 また反対に「まさか、私ではないでしょう」と言って、厚顔なまま、歩みをともにしているのだろう。

 本当は泣いているのでしょう。本当は言い出したいのでしょう。声をあげて泣きましょうよ。大きな声で言い表しましょうよ。償いの道へと歩き出しましょうよ。その時はじめてイエスはあなたを抱きしめてくれるのだから。この世で受ける辛い裁きとはまったく違う平安の中に入ることができるのだから。

 あなたの告白する声からしか始まらない。わたしはその声をひたすら待っています。