司祭 イザヤ 浦地洪一
イエスさまは、やさしい方で、どんな時にも、どこででも、誰でも愛してくださる方だと思っていたら、今日の聖書(マルコによる福音書9:38−43,45、47−48)を読むと、決してそうではないことがわかります。
キリストの弟子だというので、弟子たちに一杯の水を飲ませてくれた人には、それなりの報いを受ける、しかし、キリストを信じる者の小さい一人をつまずかせる者には、大きな裁きを受けると言われるのです。その人は地獄に落ちると、恐ろしいことを言われます。
私たちが、イエスさまの前に立つとき、イエスさまは、私たちに「あなたは白か、黒か、どちらだ」と迫ってこられます。「あなたは、わたしに味方するのか、敵対するのか。どちらなのだ」と、詰め寄って来られるのです。
「まあ、まあ、」とか、「そのうちに」とかいうあいまいな答えや姿勢は許されません。右の手が、イエスさまの味方で、左の手がどうも反対なのですというと、左の手を切り捨ててしまえ、両手がそろったまま地獄に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよいと、はっきり言われます。手も足も目もと、しつこく言われます。
この聖書の個所を読んでいると恐くなってきます。
さて、私たちの日常の信仰生活はどうでしょうか。いつもあいまいです。そのうちにとか、死ぬまでには何とかと言い続け、イエスさまや神さまとのつきあいよりも先にしなければならないことがあるのでとか、忙しいので、‥‥‥と、いつも先延ばしと弁解ばかりしているような気がします。
そして、いつのまにか、やさしいイエスさま、いつでもゆるしてくださるはずだというイエス像、安っぽい聖画の中のイエス像を、自分の都合のいいイエス像をでっちあげて、わたしは良いクリスチャンだとおさまっていないでしょうか。
ほんとうのイエスさまは、もっときびしい方なのです。手も足も目も、命をかけた信仰を求めておられます。「あなたは、わたしに味方なのか、敵なのか。」「今日一日は、イエスの味方だったのか、敵だったのか」と毎日私たちは問われています。