司祭 ヨハネ 古賀久幸
「死んだのではない。眠っているのだ」【マルコによる福音書5:22-24,35-43】
ヤイロという人がイエス様の足元に駆け込んできました。「幼い娘が死にそうです。どうぞおいでになって手を置いてください。そうすれば助かり、生きるでしょう」。子どもが死にそうな時、できることはなんでもしてあげたいのが偽らざる親の気持ちです。そして、親はみんなそうするのです。ヤイロの必死の懇願にイエス様は彼の家に急がれます。しかし、途中で出会った人たちはヤイロの家から「お嬢さんは亡くなられました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と最悪のニュースを持ってきました。生と死の壁を越えてしまったのです。
身内の死を病院で看取ったことがある方はおわかりでしょう。危篤状態では医師や看護士が病床を訪れ次々と処置をしてくれますが、死亡が確認されるや、一分一秒を争ったそれまでとは違った静寂の時が訪れます。生と死の壁を越してしまったときから遺族は現実を受け容れる辛く長い心の作業に取り組まなければなりません。
先日、息子さんを亡くされた方からお便りをいただきました。そこには「・・体調が悪いと気分が滅入ってしまい、そうなると息子のことがいろいろ思い出され、あの時私は何ひとつ息子のことをわかっていなかったと悔やまれて仕方ありません。あの時どれ程の苦しみを息子は持っていたのかと少しわかった気がいたします。謝りたい気持でいっぱいです。」と綴られていて、そのご家族のドラマを知っているだけに涙なしでは読むことができませんでした。そのとき、ふと「しゃぼんだま」の歌を思い出しました。
しゃぼんだま とんだ やねまでとんだ
やねまでとんで こわれてきえた
しゃぼんだま きえた とばずにきえた
うまれてすぐに こわれてきえた
作詞は野口雨情。最初のこどもが生まれてわずか7日目に亡くなった悲しい出来事が背景にあるといわれています。そう思って味わってみると本当に悲しい歌です。親の悲しみや切なさが胸にしみます。
聖書にかえりましょう。娘の訃報にもかかわらず、イエス様は引き返されませんでした。もう、お手を煩わせるには及びませんと言われても、「ただ信じなさい」とだけヤイロに言葉を与えられて彼の家に急がれます。到着すると家の内外では人々が不幸な少女の死を悼み号泣していました。ここでもイエス様は足を止められません。ドアを開けて中に入り、悲嘆に沈み込んだ人々を「死んだのではない。眠っているのだ」と一括されたのです。人々はイエス様をあざ笑いました。しかし、イエス様はまっすぐ少女に近づいて行かれます。とうとうイエス様の手は少女の手に触れました。そして、奇跡は起こったのです。
「ただ信じなさい。死んだのではない、眠っているのだ。少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」。なんという慰めでしょうか。
手から離れた風船が空高く舞い上がって二度と戻ってこないように誰もが娘の命を諦めたときでも、イエス様だけは手を伸ばされました。無理だと嘲笑を浴びてもイエス様はその風船の糸をつかまれて、父親の手にわたされたのでした。最悪の状態の時でも「ただ信じなさい」とのイエス様さまの言葉を胸に刻みつづけたヤイロの前に新しい世界が広がったのです。
死でさえも断ち切ることのできない、愛するものとの深い交わりに生きること、それが復活です。キリスト者は死んだと言わず、眠っているだけだと言いつづけます。人から笑われようとも、死は終りではなく復活の朝までの眠りについているのだとイエス様に励まされながら言いつづけるのです。
かぜかぜ ふくな しゃぼんだま とばそ
誰しも愛するものとこの地上では別れなければなりません。でも、イエス様を信じることによって希望と言うしゃぼんだまをとばし続けていけるのです。