司祭 サムエル 門脇光禅
「聖霊降臨のお話」【使徒言行録2:1−13】
父と子と聖霊のみ名によって アーメン
本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)。教会ではクリスマス・イースターとならんで3大祝日の1つです。十字架に死なれたイエスさまがご復活され大喜びの弟子たちでしたがご昇天してしまいました。「また来る」とは言われたもののそれがいつ来られるのか分からない。それで不安の中、ユダの裏切りで12使徒に欠員が生じていたのでマッティアという新たなお弟子を加えてお弟子たちはひとつところに集まって熱心に祈っていました。12弟子の12という数字はユダヤの世界ではとっても大切で「ユダひとり欠けたぐらいどうってことない」というわけにいかないものなのです。私たちは集団で何かするとき「自分ひとりぐらい」と誘惑にかられることが多いのですが、神さまの愛にやはり誠実に応答しているとはいえません。神さまにとって私たち一人一人はかけがえのない子どもです。有名な100匹の中で迷った1匹の子羊と同じで一人も欠けてはならない存在ということなのです。祈りのうちにお弟子さんたちやその他大勢に聖霊が降臨したときの様子が記されています。私たちは聖霊がこのように降るよう常に切望するわけですが、つい勘違いしてしまうのは、人間側の準備が整い次第聖霊が降り、また神の国がやってくるためには悔い改めをしなければと考えてしまうことです。それは実は順序がさかさまで聖霊はすでに注がれている。また神の国はやってきているのです。ですから私たちは聖霊をただ受ける備え、神の国を迎える悔い改めをすればいいわけです。また日本人はキリスト教の聖霊なる神について理解するのは得意ではないみたいです。自然の中に宿っている精霊なるものと考えたり、或いは、特殊な能力をもっている誰かに降(交)霊するようなものつまり「アニミズム」や「シャマニズム」といわれるようなものと同じように考えてしまう人々が多いように思われます。キリスト教での聖霊とよばれる神さまは神さまと人、また人と人の間を行き来する目に見えない神さまです。そうまるで風のような存在、どこからか吹いてきてどこへか去ってゆく。風は見ることができないし触れることもできない。でも感じることができる。確かに風が吹いているのもわかる。(ヨハネ3:8)
聖霊は人の心を勇気づけたりあるときは優しく包みこんでくれる力。「神は愛である」(Tヨハネ4:8)「聖霊は神である」ゆえに聖霊=愛という公式が成立するなら「愛」と呼んでも良いかもしれない。イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)と言われました。また聖霊に満たされたとき弟子たちは大胆に神さまの福音を語っています。(使徒言行録4:31等)イエスさまは聖霊が下りそれを受け聖霊に満たされたとき人は許し愛しあえる人間関係ができるのだと言われたのかも知れません。 主に感謝。