2006年5月14日  復活後第5主日 (B年)


司祭 ヨハネ 井田 泉

あなたは枯れ木ではない【使徒言行録8:28−40】

 その人は聖書を声を出して読んでいました。馬車に乗って、自分の国に帰っていく途中です。彼はエチオピア人です。エチオピアの女王カンダケの全財産を管理していた人でした。その彼が、はるばる旅をしてエルサレムの礼拝に来て、今は帰国の道にあります。こんな遠いところまで外国人の彼が礼拝にやってきたのは、彼のうちに何かを求める切なるものがあったからでしょう。
 エルサレムの礼拝において、彼は正式の会衆として迎え入れられることはありませんでした。それは彼が宦官だからです。宦官――人為的に男性としての器官を失った、失わせられた者です。そのような者が正式に主の会衆に加わることは、律法によって禁じられていたのです。

 エルサレムで手に入れたのでしょう。イザヤの巻物を彼は手にして、馬車に揺られつつ、声を出して朗読していました。
「彼は、羊のように屠(ほふ)り場に引かれて行った。
毛を刈る者の前で黙している小羊のように、
  口を開かない。
卑しめられて、その裁きも行われなかった。
だれが、その子孫について語れるだろう。
彼の命は地上から取り去られるからだ。」(使徒言行録8:32−33、イザヤ53:7−8)
 宦官。彼も、卑しめられてきました。自分でも自分を卑しめてきた。彼も、自分の子孫について語ることのできない者なのです。ここに記されている人はだれのことなのか。

 人が走って追いついてきて、声をかけました。「読んでいることがお分かりになりますか」。
「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」

 彼はフィリポをとおして、「卑しめられて殺され、しかし復活したイエス」のことを知りました。彼はイエスを信じ、そこで洗礼を受け、喜びにあふれてエチオピアに帰って行きました。

「主のもとに集(つど)って来た異邦人は言うな
主は御自分の民とわたしを区別される、と。
宦官も、言うな
見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」(イザヤ56:3)

 私たちも人から卑しめられ、また自分で自分を卑しめることがあるかもしれません。自分を「枯れ木」と思うことがあるかもしれません。しかしイエスは言われます。
 「あなたは枯れ木ではない。あなたは、あなたこそは、私といういのちの木にしっかりとつながれたいのちの枝、豊かに実を結ぶ生きた枝なのだ」と。