司祭 ペテロ 浜屋憲夫
教区ホームページの説教の当番があたってすぐに、当番に当たっている日曜日に指定されている福音書(ヨハネによる福音書10章11〜16節)を調べたのですが、それがあの有名な「私は良い羊飼いである。」というところであることがわかって、ちょっと「しんどいな」という思いになってしまい、なかなか原稿に手がつかず、やはりぎりぎりになってから、教務所から丁重な催促のお電話をいただくようになってしまいました。
どうしてそんな「しんどい」気持ちになってしまったのかといますと、私達牧師は(いや、もしかしたらそれは私だけかもしれませんが)この「私は良い羊飼いである」というところを読みますと、どうしても反射的に、「私は、一応牧師と呼ばれる人間ではあるけれども、その私は、本当に良い羊飼い、良い牧者だろうか」と思って自己点検を始めてしまうからです。そして、自己点検を始めるまでもなく、私がこの福音書に描かれてあるような完全な牧者ではないことは自分自身が始めから知っているのです。
「本当に自分は、文字通りに命を捨てることが出来るのか」、「一体自分はどこまで自分の羊のことを知っているだろうか」、「自分の目は、本当に囲いに入っていない羊にまで向けられているだろうか」、「自分は、このテキストを読んで一体何を書くことが出来るだろうか」と思ってしまい、原稿に手がつかずにずるずると日がたってしまったのでした。
「しかし、何か書かなければいけない・・・・・・」
追い詰められて、誰かが助けてくれないかと思いまして日ごろから尊敬している、山田京二牧師の説教集を苦し紛れに開いてみましたら、こんな言葉を見つけて、ホッとしたのでした。
『伝道とは本当は、自分達の事を人々に印象づける事ではなく、本当の羊飼いは誰かという事を証し、あなたがたには羊飼いがいまし給う事を証する事なのであります。』
「牧師」になるというのは、自分がたった一人の良い羊飼いであるイエス様に、とってかわって、その位置に立つことではなく、自分自身がこの良い羊飼いであるイエス様の命によって養われている者、この良い羊飼いであるイエス様に、本当に自分のことを知っていただいた者、自分こそが囲いに入っていない羊だったのにイエス様に見つけられ、囲いの中に連れてきていただいた者であることを人々に証し、人々がまたそれぞれにたった一人の良い羊飼いであるイエス様に出会うお手伝いをする者になることなのだという、当たり前のことを忘れていたことに、この山田牧師の言葉によって気づかされ、深く反省をしたのでした。そして、そういうことだったら私にも出来るかもしれないと思ってホッとしたのでした。