2006年3月5日  大斎節第1主日 (B年)


司祭 クレメント 大岡 創

 いよいよ今年も大斎節を迎えました。どのように過そうかと色々なアイディアが飛び交う時でもあります。企画倒れにならないための勇気も必要かもしれません。
 さて、B年の日課で読まれる「マルコ福音書」では「洗礼」を受けられたイエスさまと「誘惑」を受けられたイエスさまの二つの記事が記されています。洗礼者ヨハネからの洗礼によって霊に満されたイエスさま。「満たされる時」と「試される時」どちらも信仰生活の上で必要なことが示されています。また、霊に満ちた者にはいつも「誘惑」が襲い掛かかってくる状況にさらされているということ。同時に主を知った者に対する「誘惑」は主をいまだ知らない者以上であることを想起したいと思います。それが、わたしたちにとっての大斎節を迎える意味ではないでしょうか。
 どんな状況に追い詰められても、神さまのみ旨に従い続けなさい。との声が聞こえてきそうです。とかく、妥協をしながら、どこか曖昧に生きている私たちへのメッセージとして聞きたいものです。様々な行き違いや見過ごしにしてきたことのために犯した過ちに満ちた私たちの心をもう一度新しくするために、闘い続けておられるイエスさまの姿を思い起こしてみたいと思います。
 ある方は「誘惑とは自分の生き方について必死に向き合おうとする姿である」と言われました。悩みのない人はいませんし、悩まない人は新しくなれないと言うと、今の時代に通用するかなあ?とも思ってしまいます。しかし、世の中の価値と神さまとを対立させてしまうのではなく、あくまでも私たちの救いや希望は神さまのうちにある、そのために悩まれた方がおられることを覚えたいと思います。イエスさまが洗礼を受けられたというのは、私たちのために受けられたのですから。
 神さまを求める心が新しく生まれたとき、自分から進んで人と同じ思いに寄り添われた。それが、イエスさまの姿であり、そこから人々を何とか神さまに近づけようとされたのです。そのための闘いはサタンからの誘惑で終わりませんでした。
 イエスさまの受けられた洗礼と誘惑からわたしたち自身の姿が浮き彫りになって来るでしょうか。この期節、ひとりひとりの持つ「荒れ野」と向き合う時でもあります。向き合うことによって萎縮するのでなく、「してはならないことをせず」から「しなければならないことをする」ものへと高めていくことができますように。